前回に続き、マルコ福音書の「感覚性」について、こんなところもあります。子どもたちを祝福する場面です。
「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。(マルコ10章14~18節) 「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。(マタイ19章14~15節) 「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(ルカ18章16~17節)
マルコでは「子供たちを抱き上げ」、マタイでは「子供たちに手を触れ」、そしてルカでは言葉だけでイエスの所作についての記述はありません。
こういう記述は他のところにもあります。
たとえば、マルコ10章21節とマタイ19章2節の金持ちの青年に対するイエスの態度を比べてみましょう。
安息日に片手の萎えた人を癒した場面では、人々に向かったときのイエスの態度について「そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に『手を伸ばしなさい』と言われた」(マルコ3章5節)に対して「そこで、イエスは言われた。『あなたたちのうち……………』そしてその人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。」(マタイ12章11〜13節)。つまりマルコで表現されている「イエスの怒り」は、マタイでは消えているわけです。
その顕著な違いはゲッセマニで祈るイエスの所にもっともよく表れているのですが、それはそのときにまた説明しましょう。
マルコ福音書がもっとも人間的なイエスを書いていると言われる所以だろうと思います。