「聖餐」というセンスも大事
答五郎 「交わりの儀」の話から、聖体拝領やミサ全般の歴史を振り返る話になってしばらくなるけれども、前回は、中世全般を通じてミサが様変わりしたことを見たね。それは、カトリック教会としては、現在のミサの様式が生まれる前の段階まで到達したということでもあった。
問次郎 これまでもたびたび聞いた第2バチカン公会議による改革の前の姿ということですね。
答五郎 そうだ。もっとも、前のやり方が廃止されたとか禁止されたとかいうふうに受け取られていたみたいだけれど、そうではなくて、それもローマ典礼が生み出した様式の一つとして、現在も存在価値・実行価値は認められているというのが正確のようだ。トリエント式ミサといってね。
問次郎 トリエント公会議が決めたミサという意味ですか?
答五郎 それが違うのだよ。1545年から1563年まで何度も中断がありつつも行われたトリエント公会議(イタリア語的にはトレント公会議)で直接、典礼のことが決まったわけではない。ただ、その仕事はその後の教皇にゆだねられたというものだ。トリエント公会議で確認された聖体とミサについての教えを根底にしているのはもちろんだ。
問次郎 16世紀というと、1517年にルターによって宗教改革が始まり、拡大していきましたよね。トリエント公会議はそれらに対抗するものだったとイメージしていましたが。
答五郎 たしかに反宗教改革とか対抗宗教改革とかいわれて、旧体制固守のイメージでトリエント公会議もカトリック教会そのものも見られていたよね。旧教とまで呼ばれてね。実際には、それだけではなく、カトリック教会の中にもさまざまな刷新運動があったのだ。典礼に関しても、教皇の権威のもとで明確に改革し統一してほしいといった希求が高まっていたのだよ。
問次郎 宗教改革の人たちも結局、カトリック教会と分かれただけでなく、相互にも、またさまざまに分かれていきますよね。
答五郎 しかも、この時代に論じられたことは、現在もなお論じ続けられている点が多くて、16世紀は、実は、現代的なキリスト教の状況が生まれた時代ともいえるのだ。とくに今のカトリック教会の典礼の姿を知るためには、宗教改革者たちの礼拝観や礼拝形態を見ておかないとならないという点がいくつもあるよ。
問次郎 たとえば、どういうところでしょう。
答五郎 第一に面白いなと思うのは、宗教改革の諸教会では、だんだんとミサという語が使われなくなってくることだ。ルター教会がなおミサという語を使っていたけれど、ほかでは「晩餐」(聖餐、交わり)とか「祈り」という語が前面に出てくる。日本の今の諸教派でも、メインの用語はカトリック教会とは少し違って、「礼拝」「祈祷」「聖餐」「聖餐式」だろう。
美沙 「聖餐」は聖なる食事・会食という意味ですよね。これは、ことばとして、たしかにすぐに、イエスの最後の晩餐や使徒時代の主の晩餐を連想させますね。
答五郎 おお、美沙さん。ミサという言葉が出てきたところで敏感になったかな。ともかくそうした用語法の変化には、ある種の関心のもち方の変化が反映されていると見なくはてならないね。それは、当時のミサの行われ方からは全く感じられなくなっていた食事・晩餐という意味合いをなんとか表現したいという意図や工夫が働いていたと考えられる。
美沙 やはり、最後の晩餐のことを強く思い出したのですね。
答五郎 宗教改革のモチーフの一つに、当時、教会の厚い伝統に対して批判的なスタンスをとって、その根源にある、キリストの定めたこと、そして聖書に書かれてあることを取り出し直して、それに基づいて実践を改めようということがあった。ミサと呼ばれてきた礼拝に関して、最後の晩餐で、イエスがパンとぶどう酒の杯によって自分のことを記念する行為を命じたという点が何よりも大事だとして、その晩餐という行為のあり方を重視して、実感できるように考えていったようなのだ。
問次郎 でも、キリストが大事、聖書が大事というのは、カトリック教会も同じなのでは。
答五郎 そうだよ。カトリック教会の場合は、さらに教会の典礼の伝統を大事にする。少し後になると、カトリック教会の中でも、伝統を十分に踏まえつつ、やはりキリストに立ち返ろうという志向性が強まっていく。聖書の研究も推進されてね。その流れの上でカトリックの伝統が形成されていったプロセスを明らかにして、それらをもとに典礼を改革しようということになった。20世紀というのはそういう時代だった。研究が十分整うまで時間がかかったということなのだろう。
美沙 わたしは、学問が未発達だったにせよ、16世紀の宗教改革者たちが、主の晩餐のスタイルを復興させようとして実際にそれを実行していったという行動力には少しひかれます。
答五郎 それぞれの発想は評価しつつ、現在なら、研究を踏まえてどのようにできるかを新たに考えなくてはならないね。それは、カトリック教会も諸教会も一緒だよ。少なくとも、20世紀の典礼刷新によって、今のミサには、「主の晩餐」「主の食卓」など聖餐と同様の響きが戻ってきたといえるだろうね。司式者と会衆が祭壇をはさんで向かい合って行う形もそのような主の晩餐のイメージの回復の一環だったのだと思う。拝領の歌だって、その意味合いをさらに味わい深くさせてくれるだろう。
美沙 拝領の歌がないと、聖体を拝領するための行列が暗くなりますね。詩編の歌は、喜びを感じさせます。
答五郎 その意味で、カトリック教会の現在のミサには、聖餐というイメージやセンスが生きていると思う。それに、宗教改革者たちが重視したキリストによる制定というところを根底にしているということも、今の奉献文の祈りは、はっきりと告げているし。その面では、今、現代のカトリック信者はだれもが、ミサの根本を学ぶことができる。「感謝のささげもの」「感謝のいけにえ」というミサの考え方と感覚を、もう一度、学び直さなくてはね。
問次郎 「エウカリスティア」のことですね。そのことを伝えるために「感謝の祭儀」という言い方が日本ではなされるようになったのでしたね。
答五郎 そう、実は最近、カトリックの典礼学文献でも、英語・ドイツ語・フランス語でも、「ミサ」という用語があまり使われなくなってきているのだよ。「エウカリスティアの祭儀」という言い方が主流でね。日本では「ミサ」は簡潔で定着しているので依然、よく使われているけれどね。
美沙 それは結構ではないでしょうか。ずっと使い続けてほしいです。(笑)
答五郎 ともかく、ミサがエウカリスティアであること、「感謝のささげもの」であることは、奉献文の刷新を通して今改めて大切にされている点なので、そこはしっかりと踏まえて、交わりの儀にあずかれたらいいなと思うよ。
問次郎 ほんとうに16世紀のことを考えていると、現在のことに、どうしてもなるのですね。
答五郎 もう一つ、きょう考えたことは、典礼の言語つまり典礼の国語化ということともつながっているのだよ。これも16世紀から始まる現代的テーマだ。次回改めて考えてみよう。
(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)