パリ外国宣教会のシルベン・ブスケ神父。その名は、幼いイエスの聖テレジア(リジューの聖テレジア)を敬愛する人々の心に聖なる響きとともに深く刻まれている。1911年、『小さき花』と題して、この修道女の自伝を翻訳して日本で初めて紹介した神父である。
ブスケ神父は、痛ましくも、戦時中、官憲によるカトリック弾圧の犠牲者となる。1942年、当時北野教会にいたとき、求道者を装い教理を学びに来た男が憲兵隊の回し者だったという。1943年2月16日、憲兵に摘発・逮捕され、拘留の上、スパイ容疑や天皇の神性をめぐる不敬等に関する過酷な取り調べが始まる。神父は心身が疲弊し、肺炎等により3月10日、死去した。
遺体は大阪市服部霊園に埋葬されたが、その6年後の1949年、ブスケ神父師を「殉教者」と敬慕する信徒たちの声を受けて自らが建てた夙川教会に移葬され、命日の3 月10日に盛大な追悼祭が行われた。そのときの大阪教区長田口芳五郎司教の説教が同年5月号の『聲』誌に「“信仰の英雄”ブスケ師」と題して掲載されている。この号は「ブスケ師を偲ぶ」という特集を組み、ブスケ神父と親交の深かった西宮のカルメル修道会修道院付司祭ジェレミー・セトゥール師(1867~1962)の談話抄「ブスケ師の生涯」、そして、カトリック信徒の著名な経済学者、五百簱部眞治郎(いおきべ・しんじろう 1894~1958)氏が「ブスケ師の生涯」という一文を寄稿している。
シルベン・ブスケは、1877年11月19日、フランス南部アベロン県のカバネスに誕生。19歳のとき、パリ外国宣教会入会。同会神学校では、マルモニエ(1878~1933)と知り合いになる。ブスケは1901年、マルモニエは翌年、司祭になり、すぐ来日し、二人とも大阪教区の発展に尽くす。ブスケ神父は北野教会の礎を築くかたわら翻訳や著作に力を注ぎ、1911年、テレジアの伝記『小さき花』を翻訳出版するのだが、この仕事を勧めたのがマルモニエだった。
『小さき花』は、マルモニエが大阪玉造に設立した「聖若瑟(ヨゼフ)教育院」に併設された印刷所で印刷され発行。同書は一躍評判となり、宮内省の目に止まり献上されるに至る。五百簱部氏は記す。
1914年、欧州大戦勃発によりフランス神戸領事館から動員令を受けて、ブスケ神父師は帰国。従軍の後、再来日後、1921年から阪神地域の宣教に向かい、1922年、夙川に土地を購入し聖堂建設を開始、1932年に幼いイエスの聖テレジアに献堂した。今も美しいネオ・ゴシック式の夙川教会である。田口司教は語る。
神父は、宣教手段としていち早く電燈や電話を敷設、またバザーの開催を導入したことでも知られ、「電燈の神父様」「バザーの神父様」と呼ばれるほどだった。田口司教は、彼の聖体礼拝の熱心さを語る。
田口司教は、ブスケ神父師は「熱烈なる布教者」「多くの教理書、護教書、信心書を公刊して文書伝道に大いなる気焔を上げた」人と呼ぶ。
1932年献堂後、ブスケ神父は病気になって夙川教会を離れ、永田辰之介神父が赴任する。1933年、西宮市に転居してきた遠藤周作一家は自宅近くのこの教会に通い始め、1935年、周作と兄はその永田神父から洗礼を受ける。1930年代といえば、1930年4月にコンベンツアル聖フランシスコ修道会のマクシミリアノ・コルベ神父、ゼノ・ゼブロフスキ修道士らが来日。そのわずかひと月後、日本語版『聖母の騎士』誌が創刊されるが、その主要記事が幼きイエスの聖テレジアの生涯終焉を記すものであった。
(構成:石井祥裕/AMOR編集部)