マザー・テレサの導き


フランシスコ・ザビエル 野田哲也

 

私は93年3月にカルカッタ(現コルカタ)のマザー・ハウスに行くまで、マザーのこともキリスト教のこともカトリックがどういうものかも何一つ知らなかった。ましてや、ボランティアなどしたこともない、その真逆を生きるような男だった。その私が2014年1月28日マザー・ハウスでシスターたちやボランティアたちに祝福され洗礼を受けた。私に洗礼を授けてくれたのは、私の親友であるオーストラリア人の Fr. ジョンであり、代父はアイルランド人のジム、代母はニュージーランド人のジョアンだった。皆ともにボランティアをした私の家族のような人である。洗礼式では満面の笑みを携えたマザーがいたように思えた。私には一つの確信がある。それはマザーが私に神さまを教えてくれたと言うことである。

これから数回にわたり、私が授かったマザーの導きを書いていきたいと思います。この機会を頂いたのも書くことにより私自身を見直すようにと神さまの計らいだと感謝しています。駄文ではありますがどうかよろしくお願いします。

「あなたはなぜカルカッタに行ったのですか?」と良く聞かれることがある。私はその度こう答える。「女にフラれてインドに行ったんです」と。事実その当時は傷心だった。それに何よりも自分自身を見つめ直したい思いがあり、そしてバナナシィに行ってガンジス川で朝日を見ながら沐浴して今までの罪を流したい思いがありました。日本人からしてみればマユツバではないかと思うことかも知れませんが、インド人には大真面目な話でバナナシィはヒンドゥー教徒の聖地です。罪が流れるものであれば、私も流してみたいと正直思ったものです。しかし、これと言った計画を立てていた訳ではなく、飛行機の中で知り合った日本人たちがマザーのところに行くと言うので、これも何かの縁だと思いついて行くことにしました。

初日のカルカッタはカオスそのものであり、何もかもが衝撃的だった。道を歩けばすぐにドラッグの売人や物乞いが何メートルも私についてきた。これにはほとほと困り、日本からの旅の疲れを倍増させ、どうしてこんなところに来たのかと早くも後悔の念に苛まれた。

翌朝、初めてマザー・ハウスに行き、そのままプレムダン(愛の贈り物と言う意味)にボランティアに行った。疲れの取れぬままに何が出来るのかも分からず緊張のうちに向かった。プレムダンの周りは異臭漂うスラムだが、高い塀に囲まれた施設の中には大きなヤシの木が見えた。大きな鉄門をくぐり中に入れば、そこは別世界だった。患者たちが、私がそれまで見たことのないような純粋な満面の美しい笑みで迎えてくれたのである。私は一瞬にしてその笑顔に魅了された。

マザー2

写真提供:千葉茂樹

私は毎日喜びの内に一生懸命働いた。洗濯掃除を微笑みながらした。プレムダンでの生まれて初めてのボランティアは想像を遥かに超えて喜びに溢れ満たされた日々だった。ある時私は気が付いた。それは昨日まで何も食べることが出来なかった年老いた患者が、その日私からスプーン一杯の食べ物を食べてくれたことに物凄く嬉しくなっている自分が居たのである。

私は「お前はいったい誰なんだ? こんなことに喜んでいる私を私は知らない…」そう問わずにはいられないほど、私の知らなかった真新しい私に出会ったのである。それは、今まで愛すると言えば可愛い女の子だけのようなところがありました。しかし、今や目の前にいるこの死の近い老人を心の底から愛おしく思えたのです。これはマザーがくれた私への愛だと不思議と信じて疑いませんでした。

他にも英語が不自由だった私にも関わらず、海外の友達もたくさん出来た。私は気付かないうちに愛の行いは共通の平和の言葉であることを実体験し、与えられた愛に満たされている心の状態の中で感動のあまり涙しながらボランティアをしていました。そして私は、私の今までのすべてのものにまで感じたことがない感謝せざるを得ない思いに包まれ喜びに満ち、私が私として生きてきたことに全肯定出来たのでした。20年以上たった今でも、その時の思いは決して消えることがなく、私の内に色鮮やかに在り続けている。

(カトリック調布教会報「SHALOM」2015年4月号より転載)


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