ステラマリス
私は高校一年の16歳で受洗しましたので、自らの意思による「成人洗礼」であり、洗礼に至る気持ちや経緯を全て鮮やかに記憶しているとはいえ、今から思えば精神発達段階では「大人でもない子供でもない洗礼」であったと思います。
私はキリスト教とは関係のない家に生まれましたが、何故か幼稚園くらいの頃からイエス様の物語が大好きでした。本当はキリスト教の幼稚園に行きたかったのにお寺の幼稚園に行くことになり、ふてくされた幼稚園時代でした。当時住んでいた家の近くのプロテスタント教会の礼拝や日曜学校に通っていたこともあります。そして、とりわけ心を揺さぶられたのは、十字架のご受難の物語でした。
中学で念願のカトリックの女子校に入学し、「やっと大好きなイエス様のところにやってこられました!」と嬉しくて嬉しくて仕方がなかったのですが、学校で初めて経験したごミサで衝撃を受けました。ごミサで唱える言葉の美しさ、典礼の荘厳さにすっかり幸せな気持ちになっていたのに、ご聖体拝領の時になって、パンをいただけるのはベールを被った幼児洗礼の子たちだけだということがわかり(当時は今のように未信者への祝福はありませんでした)、強烈パンチで打ちのめされたようなショックを受けました。せっかくイエス様のみもとにやってきたのに、目の前で扉を閉められたような、拒絶されたようで本当に悲しかったのです。
「ご聖体をいただくことができる“あちら側”へ行きたい!」とパン屑を欲しがる子犬のように望み続け、そこから受洗への旅路については長くなるので割愛しますが、1981年12月4日に受洗のお恵みをいただきました。
そして、肝心のテーマである「初めてのご聖体」についてです。「ご聖体は味がなくて、口の中ですぐに溶けてしまう」と聞かされていましたが、本当にその通りでした。受洗に至る動機の大きな一つがご聖体へのあこがれであったわけですから、初めていただくご聖体の味をしっかり覚えておこうと思ったのに、味わう間も無く消えてしまいました。その瞬間イエス様が身体の中にはいった実感があるのではないか、とか、天使の大群が舞い降りてくるのではないか、という幼い妄想もろともに消え去ってしまいました。「味覚」という点からすれば、これほど味のない食べ物が世の中に存在するのか、というほど味も食感もないもので拍子抜けするほどでした。
しかし、それと同時に消え去ってしまったものは、あれほど幼児洗礼の子たちをうらやましいと思い続けていた気持でした。
そしていま思えるのは、味が無い=味気ない、ということではなく、「三途の川の六文銭」ではないけれど、私の存在するところを決定的に分ける大きな象徴なのではないか、何か決定的な安心感のようなものなのではないか、ということです。
洗礼式に参列するたびに、「ああ、もう一度洗礼を受けてみたいものだ」と思うのですが、洗礼は一生に一度きり。でもご聖体は七つの秘跡のなかで最もたくさん受けることができる秘跡。
そして、人生の折り返し地点も過ぎた今、「残りの人生であと何回ご聖体をいただけるのだろうか」「高齢になり教会に通えなくなったとき、誰かがご聖体を運んでくれるのだろうか」等々と考えると、一回一回のご聖体拝領がたまらなくいとおしく思えるのです。
(カトリック東京教区信徒)