聖体の味


石井祥裕

意表を突く問い

このAMORの活動の中で、ふと「聖体ってどんな味がするのだろう」という疑問に触れた。

聖体とは広い意味では「キリストの御からだと御血」をいうのだが、ここでは「御からだ」のほう、聖体となったパン、いわゆるホスティアのことを言っている。日曜日のカトリック教会のミサで、両形態(御からだと御血)の拝領はなかなか少ないのだから、ふつうに信者が拝領する「あれ」のことを言っている。で、「どんな味?」と聞かれて、はたと困った。あれ、どうだっただろう? 意表を突かれてしまったのだ。

洗礼を受けてもう41年になる自分である。学問への興味が、神学への興味となり、何かを知ること、考えることで世界が広がる感じが好きで、そのことを多くの人にも感じてもらえるよう、知識の提供、編集、著作、講義といったことをメインの仕事にしている。典礼ということを目のつけどころにしている身なのに、あっさりと「聖体の味?」と聞かれて、答えに窮している。

 

記憶にない初聖体

「わたしの初聖体」「わたしと聖体」という募集テーマに即して、自分の初聖体のことを思い出してみたが、これがすっぽり記憶から抜け落ちている。成人としての入信で、復活徹夜祭に洗礼の水を受けたこと、その約2カ月後、聖霊降臨の主日に、司教(当時の東京教区補佐司教 濱尾文郎司教)から堅信を受けたことは、もちろん克明に覚えている。なのに、初めてミサで聖体を受けたときのことをさっぱり覚えていない。どうしてなのだろうかと考えてみる。洗礼も堅信も一度限りのことで、その日の儀式のメインであるからやはりしっかりと印象に残っているのだろう。それに対して、ミサでの聖体拝領は、今に至るまで、何回も何百回も受けているからではないだろうか。

あるいは……、「毎回が初聖体だから」。うーん、いい答えのようだ。でも、キザに響く。どうして、記憶に残らないのだろう。聖体と記憶……今、これがテーマになった。

 

妙な記憶がまつわりつく

ところで、最初の質問は、「聖体の味」だった。なんと答えればよいのだろう。たしかに味といえる味はない。甘くはないし、しょっぱくも、苦くも、辛くもない。そういう意味での味ではない。だからといって味がないわけでもなく、まずいわけでもない。そうだ、実際の食べ物として受け取っているわけではないからだ。秘跡なのだから。

ただ言えることは、ミサに参加し、聖体を受けることが、ときに記憶に残るときがある。思い出話としてよくかたる。聖体拝領の行列の中で、一歩踏み出し手を差し出し聖体を受けるという行為。それがなぜかいつも小学校のときに経験した肝油のゼリーの粒を教室でもらう行列を思い起こさせる。

栄養補助食品として、肝油ゼリーの配食があったのだ。いつからいつまであったのか、はっきりとわからないが、何か情報があるだろう。そして、1960年代前半を小学生として過ごした人は全国で同じ経験をしているかもしれない。聖体拝領はなぜか、その肝油の拝領を思い起こさせる。

留学先だったオーストリアの教会で、日曜日のミサに行ったとき、大柄な、信心深い高齢の男性信徒が聖体拝領のときに全然席を立たず、じっと固まって祈っている。ヨーロッパのカトリック教会で、信徒の聖体拝領がだんだん少なくなっていたという歴史の知識が裏打ちされた瞬間でもあったが、それよりも、その信徒の方の“祈り込んでいる”雰囲気にひたすら圧倒されていた……。

そんなさまざまなことが聖体拝領やミサ参加の周辺に起こり、すべてのことへの小さな驚きも小さな喜びも記憶のひきだしに入っている。

 

聖体は鏡、聖体はあした

聖体は、そういう意味では“鏡”のようだ。おのれの姿は記憶に残さずに、その周りで起こっていることを、さまざまに心に残していく。

そして、味に戻ろう。なんで、聖体の味について答えられないのだろう、と考えているうちに、だんだん思えるようになった。すぐに味覚が反応する味はやはりない、と。もし、そのようなものがあったら、そこで終わってしまうにちがいない。そうではなく、聖体は、味覚とは別な感覚が反応すべきものなのではないか。鏡と同じように、自分の味は残さずに、周りで、そして自分の中で起こっていることを味わわせてくれるのだ。

聖体は、いつも一歩先を行っている。聖体の味は、と聞かれて、きょうはまだ答えられない。ほんとうに味を悟れる感覚が、自分にあれよ、そのときが自分にあれよと思う。そのことへの興味とおそらく願いが、拝領行列の中に、きょうも自分を立たせているのだろう。

(カトリック東京教区信徒)


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