わたしとみんなの初聖体


酒井瞳

1.不思議な世界との出会い。

私は、18歳の時に、ルーテル学院大学の臨床心理学部に入学しました。その時に、大学のオリエンテーションキャンプで、キリスト教に出会いました。その後も、大学の神学生の方がいつも笑顔で挨拶してくれて、名前を覚えていてくれて、それからお昼の礼拝に参加するようになりました。高校は仏教系だったため、初めて出会うキリスト教の世界に本当に驚きました。

CCC(キャンパスキリスト教センター)で、毎日礼拝後に、みんなでお昼を食べて、日々を過ごしていました。チャプレンの河田優先生も、わかりやすく聖書を教えてくれたり、そうかと思えば、楽しそうに色々と遊んでいる時もあったり、なんだか不思議な世界だなぁと思いました。悩みはあってもみんないきいきとしていて、マイペースに過ごしていました。それは、私からしてみれば、今まで生きていた世界と全く違う、パラレルワールドのようにも思えました。中学高校と、生きづらさを感じる日々で、家にも学校にも塾にも居場所が無かった私ですが、初めて心から笑う事もできるようになりました。

その後、お昼の礼拝は頻繁に行きましたが、日曜日の教会にはなかなか足が進みませんでした。教会は中年から高齢の方が多くて、何を話せばいいかわからないし、そもそも献金に物凄く抵抗がありました。でも、大学よりも長い礼拝の充実感とか、聖書研究会は楽しいと思えました。何度か、周りも見かねたのか、何人かのグループで教会巡りをし、色々と訪問した後で、東京教会で関野和寛先生から洗礼を受ける事にしました。それは、ペンテコステの日でした。

洗礼の時に、私は、その時に患っていた酷い不安感が消えるように願いました。それまでの人生の中で受けてきたひどい不条理や色々な関係の悩みが、洗礼を受けたら本当に落ち着くような気がしました。18歳でルーテルに入る前までの、本当に、人生のつらい時期。どこで何をしていても「どうして私は、どこにも居場所がないのだろう」という絶対的な孤独と同時に、本を読み、空想の世界にしか逃げ場所のない時期。そこから、本当に、人間のあたたかさや、神の愛が存在する共同体を知った事。本当に、そこに救いがあると信じていました。

 

2.神は私に可能性を賭けている。

しかし、洗礼を受けた年の9月に私は入院してしまいました。それも、ある朝突然。そこからの人生もずっと精神も身体も不調続きで、本当に大変でした。さらに、洗礼を受けて教会に関わる事で、より大変な事にも巻き込まれました。ある意味では、洗礼の時の願いは叶わなかったのかもしれません。でも、だからといって、私は神の存在に疑問を持ったとか、裏切られたというような気持ちにはなりませんでした。それどころか、私は相変わらず、神さまが大好きだったのです。

ルーテル学院大学(写真提供:筆者)

聖人伝のような奇跡は、洗礼のその瞬間には起きませんでした。でも、違う意味で、祈りは叶っていました。私は、家族以上に家族のような人間関係と、自分の想像以上の恩恵を受けました。今まで触れた事が無いほどの多くの人間関係と、信じられないほどの優しさの中で生きる事ができるようになりました。それに、本当だったら死ぬかもしれないような多くの困難の中にいた事も、事実なのですが。

それでも、何があっても「神さまは絶対に悪くない」という事と、「後でわかる」というこの2つは、今でも自分が本当に大事にしているものです。私が生きている限り、神は私に可能性を賭けているのがわかります。そして、今はわからない事も、後で絶対にその意味がわかる。今は何の為になるのかと思う事や、無駄な遠回りのように思う事があっても、絶対にそれが後で本当に意味がある事だとわかる日が来る。それが、私の31年の人生の中の現時点での私の神学の中核です。

 

3.わたしとキリストの体。

カトリックが語る聖体拝領、ルーテルで言うところの聖餐式も、本当につらいときの糧でしたし、今でもそうです。やはり受けると安心しますし、自分では気付かずとも、私の身体と霊的な体を維持する大事な要素だと思います。そして、今までの人生の中で、そのような礼拝と共に人生の道を歩んだ事は、周りの方が知っていると思います。こんなに在俗の俗で、結構カトリック的にはアウトな事ばかりしているようでも、私から見れば、神さま自身も受け入れてくれているように感じているので、それは、そうなのだと思います。私の罪深さや至らなさも知っている上で、神はいつも見守ってくださっているのだと思います。だからこそ、上智大学に来てご聖体をいただけないとわかった時に、本気でどうにか変わってほしいと思いましたし、その疑問は在学中も、そして今でも解決の可能性を探しています。

別に、私は、地獄に行きたくないわけでもない。
みんなが食べているパンを、ただ、食べたいわけではない。

そうではなくて、私は本気で、自分の命の恩人でもあり本当に神に繋がっているルーテルの信仰を貫きたいのが事実だし、それ以上何も望まないように感じます。別に、私は上智で成績が良かったわけでもなく、むしろ、成績不振で退学寸前だったし、ある意味、負けっぱなしなのだと思います。ですが、宗教改革500年のルンドの合同礼拝もそうですし、自分の結婚も、この世でいただく人生最大の祝福を、両方20代後半にしてもらってしまったように感じました。あの時に、私は本当にこれ以上一歩も前に進めないぐらいの絶望の中だったのに、前を向く力が与えられました。それだけでも自分がこの世界で生きた意味を知るぐらいの感動でした。

希望があれば、人間は決して死ぬ事は無い。それは、ただ肉体的な死ではなく、生きながら何の方向性も見えずに、ただ浪費するように人生を生きる事からの解放でした。私たちは、日々様々な制約の中で生きています。この世界には「普通の人生」とか「成功する人生」とか色々とあるかもしれないですが、イエス・キリストの人生はどうだったのでしょうか。私は少しでも身近な人の助けになりたい部分もあるし、誰かの希望になる事は今はできなくても、それでも自分に出来る事をしながら誠実に生きていたいです。その中で神は今の私を、今できる範囲で用いてくれていると信じています。

 

4.わたしとみんなの初聖体。

今、私はエキュメニカルプロジェクトと呼ばれる青年エキュメニカル大会のお手伝いをしていますが、そこでも、ルーテル、カトリック、日本基督教団の青年の合同礼拝の聖餐・聖体拝領問題がやはり大きな壁です。この大会は今年が3回目ですが、礼拝でみんながキリストの体としてパンを受ける事はできないので、礼拝後にみんなで大きなパンを分け合って食べる事にしています。たとえ、同じキリスト教で、同じイエス・キリストの同じ洗礼であっても、なかなかその部分はまだ未解決です。

でも、いつか私だけではなく、みんなが初聖体を受ける日が来ると願っています。みんながそれぞれの教派の良さを失わずに、この悩みを解決する手段が絶対にあるはずです。ただ、カトリックに吸収合併するだけではなく。本当に私達がその信仰を無理に変えずに、初めて同じご聖体をもらう初聖体を受ける日が来るのだと信じています。確かに、今は神学的な理由で、微妙な違いの故に、同じキリストの体を同じ一つの礼拝の中では受けられません。でも絶対に、たとえ私の死後かもしれなくても、そのような日が来ると私は信じています。

(写真提供:筆者)

そのためには、私たちの教派を超えた繋がりだけではなく、神学も本当に必要なのだろうし、そこから攻めていくしかないようにも感じます。また、このキリスト教同士の教派間対話の中にこそ、本当に第二バチカン公会議の意義があるのだと感じます。きっと私たちは、先人の誰もたどり着けなかった神の愛を実現できるように感じています。2000年以上の地上の教会の歴史の中で初めて起こる救いの歴史の新たな転換点に、今いるのでしょう。

それが本当に神の望みなら、私はいつか絶対に実現すると信じています。

 

5.あなたが来るのを待っている。

今年中にフランシスコ教皇が来日すると報道されていますが、私も本当に自分の目でその姿を見てみたいです。そして本当に多くの感謝を伝えたいです。私がルーテル学院大学という、東京都にあるとはいえ小さな大学の中で育ち、そして上智大学に進み、精神的な不調や色々な絶望や不条理や無力さの前に退学するしかないと思った時、ルンドでの宗教改革500年の合同礼拝を見て、本当に感動したと。自分だけではなく、ルーテルの恩人たちが信じられない程に共に喜んだと。確かに「ルーテルとカトリックは、50年も既に対話している」とか「あの時は宗教改革500年だったから」という言い方もできただろうけど、それ以上の意味をこの人生の中で見てきたと。何よりも、神は今でも生きていると、強く感じました。

私たちの語る神は、ただの机上の空論ではありません。生きて、私たちを愛し、見守る神がいます。そして、本当に、私たちは「どこまで信じ続けられるのか」という試練の中にいるのだと感じます。何も目に見える証拠が無いようでも、人は文字を使い、自分の全てを使って、神の存在を証明します。そして、自分の神への希望が他者の希望に繋がっていくのです。そうやって、ずっと信仰は継承されていくのでしょう。私たちは決して無意味にいつか灰になるために、生きているのではありません。私だって本当に、無謀で、愚かに見えるような人生を歩んでいるとしても。神を求めて、この人生を、どこまでも、行ける所まで、走り続けたい。それが、自分の人生の意味なのだと今でもそう思っています。

 

6.あなたが来るのをみんなで待っている。

それは、フランシスコ教皇の事もそうですし、本当にその時に私だけではなく、全ての人々が神の国の実現を肌で触れる事ができるようなことだと思います。数年前の「フランシスコと話そう」という上智大学の企画にも参加しましたが、その時のことですら、目の前でリアルタイムで対話できる事が本当に奇跡的だったと感じています。でも、それ以上に、こんな小さなキリスト者も少ない島国に目を留め、心を寄せてくださった事に感謝しています。必ずしも私は、遠藤周作の『沈黙』のように拷問の中で信仰を生き抜いたキリシタンの生き残りでも何でもないですが。

殉教だけが、
信仰の証ではない。
私は、生きる。
信仰を、生きる。

色々な絶望、苦しみ、どん底、行き詰まり、本当に死ぬ程つらい時期もあったけど、それでも信じたい。神さまは絶対に悪くないし、私の無謀な行動を見て、笑っているかもしれない。だけど、洗礼を受けたあの時の願いは全て叶っているし、何の対価も払わずに受けてしまった洗礼のおかげで、今このような人生を歩んでいる。それは、自分の人生なのに、自分にとっても本当に不思議だとしか言えないものです。それに、私だって本当に祈られていると思いますし、決して自分の力だけで生き抜く事はできなかったと自覚しています。だけど、だからこそ、そこに人を通して働く神の力をいつも感じていました。

確かに、キリスト教にも過去には色々ありました。それに、今でもこの世界の、日本においても先の見えない不安は無くなる事はないでしょう。それでも、フランシスコ教皇はただ来日するだけではないと思います。そこには、何か大きな約束を伴っていると感じますし、それが何なのか今はわからなくても、もう少しでわかるかもしれません。大きな変化のきっかけが与えられることを、私は祈っています。

もし、ルーテルの私が、ルーテルのままで初聖体を受けられたら、
周りの友人も、同じように受ける事ができるのであれば、
その日が、本当に「神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれる」日なのでしょう。

(日本福音ルーテル教会信徒)


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