土屋 至
次の二つの祈りを読み比べてみよう。
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前者はヤコブが旅立つときのベテルでの祈りである。賛美歌の「主よみもとに近づかん」の歌の2、3、4番で歌われている場面である。
2 さすらうまに 日は暮れ
石のうえの かりねの
夢にもなお あめを望み
主よみもとに 近づかん
3 主の使いは み空に
かようはしの うえより
招きぬれば いざ登りて
主よみもとに 近づかん
4 目覚めてのち まくらの
石を立てて めぐみを
いよよせつに 称えつつぞ
主よみもとに 近づかん
(カトリック聖歌集658「主よみもとに」より)
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後者は旅の終わりの祈り、故郷に帰ってきてあした兄のエサウと再会するという前の夜の祈りである。
この二つの祈りは20年ほどの隔たりがある。この20年の間にヤコブはさまざまな試練に遭い、それを乗り越えて今故郷に帰ろうとしている。
旅立つ前の祈りでは、ヤコブは神と取り引きをしている祈りである。もし……………ならば……………しましょうという約束をする。本当は不安でいっぱいなのにそれをあらわすことはない。
旅の終わりの祈りではヤコブは「あなたからの恵みを受けるにふさわしくない者です」と言ったあとに不安を包み隠さず述べている。エサウを追い払ってくださいとかエサウとの争いが起きたら味方してくださいとも祈っていない。ヤコブが求めているのは神がともにいてくださり、わたしの恐怖を和らげてくれるように謙虚に祈っているのである。
ユダヤ教のラビのH.S.クシュナーは『ふたたび勇気をいだいて―悲嘆からの出発』(日野原重明・齋藤武訳、ダイヤモンド社、1985年)のなかで、この旅の終わりの祈りこそ「神が応答してくださる祈り」だと述べている。
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ところでこの話をわたしはいまから30年前の第1回宗教倫理教育ワークショップの模擬授業で取りあげた。その授業に対して助言者の教理神学者M神父は「この授業はユダヤ教の授業である。旧約聖書はイエスとの関わりの中で読むことに意味があるのであって、それ以外の旧約は読む必要がない」と一喝されたことが忘れられない。
土屋 至(つちや・いたる)
聖パウロ学園高校「宗教」講師
SIGNIS Japan(カトリックメディア協議会)会長
宗教倫理教育担当者ネットワーク世話人