ミサはなかなか面白い 75 「神の小羊」って何?


「神の小羊」って何?

答五郎 やあ、久しぶり。4月、新年度に入ったね。

 

 

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問次郎 答五郎さん、少し長い中断でしたが、どうしていらしたのですか。

 

 

答五郎 この「AMOR-陽だまりの丘」の特集29「祈りのすがた」をじっくり読んでいたのさ。「祈り」というテーマで、時代を超えた祈りのすがたや、今生きている人たちの魂の鼓動を聞けた思いがする。それとともにね……、ミサだってまぎれもなく「祈りのすがた」だということをあらためて考えたいと思ったよ。

 

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問次郎 それは、ずっとこの対話のテーマですよね。ところで、きょうは、平和のあいさつに続くところだと思います。

 

 

答五郎 そう、平和のあいさつを交わしたあと、いよいよ聖体拝領に近づいていくという動きが一つ行われる。それが、『ミサ典礼書』の注記に次のように書いてある部分だ。

 

 

女の子_うきわ

美沙 読みますね。「パンの分割 司祭は、パテナの上でパンを割り、小片をカリスの中に入れて、沈黙のうちに祈る」というところですね。たしかに、ここは「平和の賛歌」に注意が行きますが、司祭の行為も気になっていたところです。

 

答五郎 総則でここの部分の表題は「パンの分割」となっている。ただ、ここでパンといわれていても、聖別の後だから聖体としてのパン、つまりは聖体だということは忘れないようにね。さて、初代教会では「パンを裂く」という表現でもって今の感謝の祭儀のもとになるような典礼を表していたらしいことが使徒言行録(2章42節、46節)から感じられる。そしてなによりもパウロが1コリント書10章16節から17節にかけて言っていることが重要だよ。

 

女の子_うきわ

美沙 「わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」ですね。

 

 

答五郎 聖体拝領が交わりの儀、そしてキリストにおける平和と一致の儀だと考えられることの根拠が、ここに示されているだろう。

 

 

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問次郎 ここで、裂くとか割るとかいわれても、実際にミサで使うパンは、もう最初から小さく分けられていますよね。

 

 

答五郎 たしかにそうだ。それは実際上の必要からそうなってきたことで、それはそれで意味も役割もあることだと考えられている。ただ、そこでも、実際に一つのパンを分けて食べることで、キリストの体に一致するという考えをしるしとして示そうとしているのがこの部分だよ。今でも司祭が一つの大きめのパンを割るということでその考え方が示されているのだよ。

 

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問次郎 そうか、司祭が大きなパンをもっているのは、司祭が偉いからとか聖職者だからということでもないのか! 割る行為が目で見えるようにするためなのですね。

 

答五郎 司祭の聖体拝領もそれなりに重みがあることではあるので、そのことを表現する意味もやはりあるとは思うけれどね。

 

 

女の子_うきわ

美沙 では、小片をカリスの中に入れるという行為はどんな意味なのですか。

 

 

答五郎 これは、ずいぶん古代の東方典礼で始まり、ローマ典礼にも早くから入った儀式慣習だといわれていて、典礼学では「混和」と呼ばれる。パン(キリストのからだ)とカリスのぶどう酒(キリストの血)がキリストのうちに一つになることを示すものと早くから解釈されていたらしい。さらにいうと、受難の死のときに体と血が別々にされたけれど、復活の体では一つになったことを表すとも解釈された。ちょっと凝った解釈だけれど、この混和が永遠のいのちを前もって示すものだということだね。聖体にもともと含まれている意味の展開といってもいいのだけれど。実は、混和のとき司祭は沈黙のうちに祈っているのだが、その祈りにもこれらの解釈が生きているね。

 

女の子_うきわ

美沙 これですね。「今ここに一つとなる主イエス・キリストのからだと血によって、わたしたちが永遠のいのちに導かれますように」。ほんとうですね。

 

 

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問次郎 なるほど、でもこの祈りは、聖体拝領、交わりの儀の意味を重ねて告げているもののようにも思えます。では、ずっと思っていた質問です。そのときに皆が歌う「神の小羊……」の歌、「平和の賛歌」で、キリストのことを「神の小羊……」と言うのがわかりにくいなと思っていました。

 

答五郎 おや、そうかい。「神の小羊、世の罪を除きたもう主よ」の部分は、まずヨハネの福音書に出てくる洗礼者ヨハネのことばにから来ている。洗礼者ヨハネが、救い主が現れることを予告して、イエスに出会ったときに「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1・29)といったのだよ。罪を取り除くいけにえとして自分自身を神にささげた方がイエスだという理解がこの根底にあることはわかるだろう。

 

女の子_うきわ

美沙 小羊がいけにえ、献げ物として出てくることは少し知っています。

 

 

答五郎 旧約の小羊でもいろいろあって、詳しくは説明しないけれど、イエスとの関連で重要なのは、第一に過越の小羊だ。出エジプト記12章を見ておいてほしい。ちなみにパウロはキリストを過越の小羊にたとえている(1コリント5・7)。それから、やはりイザヤ53章で言及されている「主の僕」の姿が重要なのだよ。ここの6~7節を読んでみてくれるかな。

 

女の子_うきわ

美沙 「そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみこみ、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように……彼は口を開かなかった」

 

 

答五郎 主の僕に関するイザヤの預言は、イエスの受難の意味を悟るための導きとなったので、それで今でも受難の主日や聖金曜日の第1朗読で読まれるのだよ。そして、新約聖書の最後の書物「黙示録」はね、キリストを示すために28回も「小羊」という語を使っているぐらい、小羊としてキリストを語り、賛美している。たとえば、5章12節。

 

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問次郎 こんどは読んでみようかな。「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です」。立派な賛歌ですね。

 

 

答五郎 救い主キリストを小羊として表現する美しい箇所があるよ。7章16~17節だ。殉教者たちが父である神と小羊キリストの前に集っている光景で語る。

 

 

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問次郎 「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」。永遠の命の楽園のことが言われているのですね。

 

答五郎 神の小羊というところに、キリストが、人の罪、世の罪を取り除く、あがないのいけにえという意味が象徴的に示されているだろう。さらに、その体を受けてキリストと一致する人々が永遠の命に導かれていくという意味合いまで「神の小羊」という句には含まれているのだと思う。

 

女の子_うきわ

美沙 エジプト脱出のときから最後の完成に至るまでの救いの歴史全体が、ここにはぐっと込められているのですね。聖書を知らないとわかりにくい表現ですが、知ると深いですね。

 

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問次郎 「あわれみたまえ」は、あわれみの賛歌と同じような意味ですね。願いのようでいて、キリストがあわれみ深い方、いつくしみ深い方であることを賛美することばであり、キリストにより頼む気持ちがこめられているのですよね。

 

答五郎 そのとおり。願いでもあり賛美でも信仰宣言でもある文言だ。最後のところで「われらに平安を与えたまえ」となっているが、この「平安」は訳語が違うだけで「平和」とまったく同じだ。その前までの平和を願う祈りや平和のあいさつの流れがずっと続いているだろう。平和の主であるキリストへの賛美と信頼が込められているのだよ。気持ちをこめて歌いたいね。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


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