川邨裕明(カトリック芦屋教会主任司祭)
人間の五感のうち、マスコミの媒体で伝えることができるのは視覚情報と音声(聴覚)情報だと思います。嗅覚、触覚、味覚は今のところ伝えることはできなくて、想像するほかないのです。嗅覚、触覚、味覚を私は肌感覚と呼ぶことにしています。肌感覚は現地に赴くことでしか、確かめることができないのです。
私が初めて東日本大震災の被災地に足を運んだのは、5月の連休直後でした。福島第一原発事故の被害や状況がある程度把握できるのを待ってでした。援助できるつながりを探して、あるいは被災地の全体像をつかむために、レンタカーを走らせました。
東北地方に土地勘はなく、釜石に行きたくてナビを塩釜に設定してしまい、到着してもしばらく気が付かないで、少したってからミスに気付くなんてこともありました。
人の営みの消えた街でがれきが発する強烈な悪臭、カナブンほどに成長したハエが頭の周りを飛ぶ羽音とその風が触れる気持ち悪さ、一方では、素早く立ち上がったカトリック教会のボランティアと囲む食事の温かさとおいしさ、現地でなくては決して感じることのできない肌感覚が私を圧倒しました。
そして私は、そこから毎年、様々な形で被災地にかかわるようになっていました。
正直、被災地各地のすさまじい現実に圧倒されて、祈ることもできず、ただ記録を取り続けるのが精一杯でした。ようやく祈りらしきものができるようになったのは、関西から定期的にボランティアを送り込むことができた頃からでした。その頃には、被災地の複雑な人間模様に翻弄され、補償金という名のお金が人間関係を破壊していく様に何もできず、ただ祈るほかになくなっていました。
反面、新しい出会いを通してきずなが広がり、前向きに生きようとする人が少なからずいることに励まされたりもしました。
今もこれからも、これまでの歩みをベースに、自分にできることを、誠意をもってやっていこうと決意を改めて固めています。祈りつつ働くこと、これが被災地で私ができることなのです。