ミサはなかなか面白い 64 聖別のところで響く鐘


聖別のところで響く鐘

 

答五郎 こんにちは。ここまでだいぶ奉献文の中心というか、クライマックスにあたるところをずっと見てきたね。イエスの最後の晩餐のときのいわゆる聖体の秘跡の制定のことば、聖別といわれるところから、「信仰の神秘」で始まる対話句、それに「ささげます」ということばで締めくくられるところまでだ。

 

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問次郎 奉献文の頂点といわれるだけに、意味が厚くなっていて、少し緊張しましたし、疲れました。

 

 

答五郎 そうか。たしかにそうかもしれない。ほんとはもっと探求しなくてはならないこともあるよ。

 

 

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問次郎 少し話を戻しますが、とくにイエスのことばの前とか最中に侍者が鐘を鳴らしますよね。あれは、どういう意味があるのでしょうか。

 

 

答五郎 ははぁ。そういえば、そのことに触れていなかったね。たしかに、結構目立つところで鳴るね。一つの慣習なのだけれど、ミサ典礼書の総則にもちゃんと触れられている行為なのだよ。美沙さん、頼む。

 

 

女の子_うきわ

美沙 はい。総則150 番ですね。「聖別の少し前に、適当であれば、奉仕者は小鐘を鳴らして信者の注意を喚起する。同じく地方の習慣に従って、それぞれ、パンとカリスが会衆に示されたときに小鐘を慣らす」。「小鐘」(こがね)というのですね。

 

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問次郎 「鈴」と呼ぶ人もいた気がしますが。

 

 

答五郎 ラテン語の原語は「カンパヌラ」(campanula)と言って、鐘楼の鐘(カンパーナ campana)の小型のものという意味だ。もともと「小鐘」は、聖堂の入口にあってミサが始まるときなどに鳴らすものを指すのだけれど、侍者が手元にもつ小さな鳴り物も「小鐘」というようになったらしい。

 

女の子_うきわ

美沙 そういわれれば、ミサが始まるときに小鐘を鳴らしている教会もありますね。

 

 

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問次郎 総則に書いてあるとおり「信者の注意を喚起する」という役割はすごく感じます。これから、聖別の部分、聖体の秘跡にとって大切なところが始まりますよ、という最初の響きですね。

 

 

答五郎 それから、「パンとカリスが会衆に示されたとき」、これは、もちろんもうすでにキリストのからだとキリストの血になったことが示されるわけだね。

 

 

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問次郎 そこでは、やはり聖体に向かって、頭を下げ礼拝する姿勢をとることになるので、そのための注意喚起ですね。昔からあったのですか。

 

 

答五郎 そう、ミサの歴史の中では、中世後期には、祭壇が会衆席からはずっと前の奥のほうに置かれるようになって、しかも司祭がその祭壇に向かって、つまり会衆には背を向けて司式することが一般化すると、聖別の儀式の動作も見えず、また奉献文の全体も、とくにこの聖なる聖別のところが声を上げて祈ることがなくなってきたため、大事な部分が始まるというしるしとして、小鐘や鈴が鳴らされるようになったらしい。

 

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問次郎 そうすると、ミサの行われ方も司式者が信者に向かい、奉献文全体、もちろんここの聖別のところもはっきりとわかる言語で声を出して唱えられるようになった今は、そのような注意喚起は不要ともいえますね。

 

 

答五郎 たしかに、侍者がつかないときなどは、行われないことが多い。そもそもこの総則の記述も「しなければならない」規定ではなく、「適当であれば」とか「同じく地方の習慣に従って」というように任意の可能規定になっているわけだよ。

 

 

女の子_うきわ

美沙 でも、この小鐘の響きは、神妙な気持ちにさせてくれます。パンとぶどう酒がキリストのからだと血になるという厳かな出来事がこれから、そして今起こっているという感じになるのです。

 

 

答五郎 そういう面もあるだろうね。ただ、鐘楼の鐘が人々を礼拝に招くものであったという長い伝統があったからこそ、厳かな礼拝への招きという味わいがなお感じられるのだろうね。

 

 

女の子_うきわ

美沙 少年少女たちが侍者をしているときには、すごく緊張するのではないかなと思うこともあります。

 

 

答五郎 たしかに、少年少女たちに侍者を任せてミサについて学んでもらおうとする例は、現在も多いと思うけれど、いわば、その奉仕のクライマックスといえるものだろうね。

 

 

女の子_うきわ

美沙 あと、必要・不必要という次元とは別に、典礼の中での音響効果というか、声やオルガンの音だけでなく、小鐘の響きのもつ礼拝効果というのは、やはり教会らしいなと思うのですが。

 

 

答五郎 逆にないときでも、奉献文のここの部分をとくに歌って祈るときに、その内容に耳を傾けていれば、おのずと厳かな礼拝の気持ちを促されるということも見ておかなくてはならないよ。そういったことは、聖堂の大きさや構造、集まる人の数やミサに対する理解度など、その共同体の様子によって適宜考えていく必要があることだ。これが現場判断、司牧的配慮と呼ばれるもので、そういったことが典礼では大切なのだよ。それで「適当であれば」という一言があるのだよ。

 

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問次郎 さりげない一言ですが、「適当であれば」の意味は、大きいのですね。

 

 

答五郎 つくづく思うのだけれど、「文」と呼ばれ、「祈り」といわれるこの奉献文の祈りは、ただ、言語行為というだけでなく、パンとぶどう酒の聖別が行われ、キリストがただ一度自分をいけにえとしてささげたことが今示され、それと一つになって教会である「わたしたち」が自分自身をささげるという、大変深い行為がなされるところだ。この一連の流れの中で、何か聖なることが行われているという感覚を呼び起こす上で、小鐘の響きもやはり有効なのかもしれない。

 

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問次郎 小鐘でなく、拍子木のようなものが使われていたときがある気がします。

 

 

答五郎 ははぁ。それは聖木曜日の「主の晩さんの夕べのミサ」のときだね。このミサのとき、栄光の賛歌を歌うときに、教会の鐘を鳴らすことができるという慣習があってね。鐘楼の鐘ではないときに、侍者が一生懸命、小鐘を鳴らし続けているのを聞いたことがあるだろう。

 

女の子_うきわ

美沙 はい。あります。あれも印象的なことでした。手が疲れないかなとか、それにしても感動的な響きだなとも思いました。

 

 

答五郎 そして、そのあとには復活徹夜祭まで教会の鐘は鳴らさないという規定がある。鐘を控えるということが受難のしるしとなっていくわけだ。それでも、聖別の合図として何かを鳴らす必要性が感じられて、拍子木のようなものに替えるという工夫も出てくるわけだ。もちろん何も鳴らさなくてもよいのだけれど。

 

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問次郎 それも現場判断なのですね。いろいろな判断の様子を見るのは、ミサ訪問の面白いところになります。

 

 

答五郎 せいぜい、見学に努めてほしい。さて、奉献文の頂点の部分はまだ残っている。そこからの展開は次回、見始めることにしよう。奉献文の旅はまだまだ続くよ。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


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