ミサはなかなか面白い 58 「これをわたしの記念として行いなさい」


「これをわたしの記念として行いなさい」

答五郎 さて、前回は、イエスのぶどう酒の杯についてのことばを見たね。

 

 

 

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問次郎 はい。マタイ、マルコ、ルカ、一コリントとそれぞれの杯についてのことばがまとめられていました。キーワードの一つが「契約」で、一コリント11・25とルカ22・20にある「新しい契約」ということばにさらに「永遠の」が加わって、「新しい永遠の契約」と強調されていました。

 

答五郎 そうだったね。杯についてのことばが案外と豊かな内容があっただろう。パンについてはとてもシンプルだったけれどね。どちらのことばも聖体の深い意味を語っているものだよ。きょうは、その次にすぐ続いて出てくる「これをわたしの記念として行いなさい」を見てみよう。

 

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問次郎  聖書から見ると、一コリント11・24ではパンについて「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」、続く11・25では杯について「……新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われています。

 

女の子_うきわ

美沙 わたしが気になるのは、ルカ22・19で、パンについてのことばで「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」とありますが、杯についてはないことです。それにマタイ、マルコにはこの記念のことは全然出てきません。

 

答五郎 新約聖書の主の晩餐の記述では、たしかに記されていたり、記されていなかったり、パンと杯の両方であったり、パンだけであったり、まちまちだけれど、典礼では、大切なことばとして伝えられているね。じっさい、初代教会でも、そのことばを意識しながら典礼を始めていただろうと思う。そのことを明示するか、暗黙の前提とするかの違いが反映されているのではないかな。

 

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問次郎 でも、じっさいには、現在のミサまで、ずっとこの典礼が行われているのですから、「わたしの記念としてこのように行いなさい」という命令には、時代を貫く力があるのですね。

 

 

答五郎 うまいことをいうね。このことばを記すかどうかには、典礼の意味を知らせる意図が強いかどうかを反映しているようだ。一コリントで、パウロがパンのことばと杯のことばで二回も繰り返しているのは、聞いている人がしっかり納得するように念を押しているようにも響くからね。

 

女の子_うきわ

美沙 いずれにしても、聖体の秘跡の制定とか主の晩餐の典礼の制定とかいわれることが、よりはっきりしますね。この記念命令で。奉献文をミサで聞いていて、それはよくわかりますよ。

 

 

答五郎 まじめに聞いているのだね。そうなったのも、現在の各国語で行われるミサになった効果なのかもしれないな。ちなみに、今見ている聖書の訳(新共同訳)では「このように行いなさい」となっているけれど、ほんとうは奉献文にあるように「これを行いなさい」のほうが正しいそうだ。

 

女の子_うきわ

美沙 パンとぶどう酒の杯を使ってするこの食事(晩餐)を「わたしの記念として」行うようにということですね。

 

 

答五郎 そうとっていいだろうね。ただ、「わたしの記念として」はどういう意味だと思う。

 

 

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問次郎 「あなたがたのために渡される」イエス、「あなたがたと多くの人のために」血を流し、罪のゆるしとなり、そうして「新しい永遠の契約」を結ばれたイエスを記念するという意味でしょう。

 

答五郎 典礼文を自然にとればそうだし、正解だと思うよ。

 

 

 

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問次郎 答五郎さんは、何にこだわっているのですか。

 

 

答五郎 いやね。自分がミサに参加するようになって長年になるけれど、このあたりを聞いていて、「わたしの記念として」が、どうも、俗っぽいというかしっくりこないのだよ。「記念」という日本語の語感のせいかもしれない。君たちはどうかな。

 

 

女の子_うきわ

美沙 わかりやすいとは思いました。「記念」って、一般的に使われますから。

 

 

答五郎 そこが心配なのだよ。たとえば、学校創立50周年記念行事とか、バッハ生誕○○年、モーツァルト没後○○年とか、世の中、そういう記念行事が多いだろう。イエスのことはそれとは違うと思うのだがね。

 

 

女の子_うきわ

美沙 イエスのことを記念する行事というかお祝いがミサなのかなとわかりやすく思えたのですが。

 

 

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問次郎 前回のお話を踏まえると、イエス・キリストによる「新しい永遠の契約」が結ばれたことの記念のお祝いということになるでしょうか。

 

 

答五郎 そういうことになるかな。

 

 

 

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問次郎 生誕・没後○○年に関連づけると、イエスの生誕が降誕祭、イエスの没後記念、復活があって、それが復活祭かなと……。

 

 

答五郎 なるほど。でも、なんとなく「記念」というと行事に流れるというか、表面的な感じがしてならないのだよ。

 

 

女の子_うきわ

美沙 訳し方の問題ではないでしょうか。「思い出」とか「記憶」とか「想起」とかいったほうが合いますか?

 

 

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問次郎 「わたしの思い出として」とか「わたしを覚えておくために」とかではだめですか。

 

 

答五郎 その場合、問題になるのは、記憶する人の主観の中だけのことになってしまうということだ。ただ単に心の中で思い出すこととも違うのだよ。ある共同体が自分たちにとって、もっとも重要な出来事や人物のことを思い起こすというファクターが大事なのだよ。

 

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問次郎 それなら、やはり「記念」のほうがよいですよ。世の中で「記念」がよく使われるのは、町や村や何らかの団体にとって重要なことを共同で思い起こして創設の初心に立ち返ろう!という意味が入るからではないですか。バッハもモーツァルトも音楽界全体にとって重要という……。

 

答五郎 そうか。これは教えられたな。記念でもよいのか? うーん、でも何か人間的、社会的な記念行事とは違うというところをいいたいのだけれどね。

 

 

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問次郎 珍しく煮え切りませんね。いつも、明快に答えてくださるのに。

 

 

答五郎 “帯に短し、襷に長し”的なことにもなるからかな。言いたいことを考えるために少し時間をくれないかな。

 

 

女の子_うきわ

美沙 もちろんですとも。ミサの祈りを聞きながら、わたしも考えてみます。

 

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


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