奉献文の「文」って何?
答五郎……季節はもはや初夏という感じだね。ミサの「感謝の典礼」に入ってだいぶなるけど、きょうからいよいよ、狭い意味での「奉献文」という部分に入ろうと思うのだけれど……。
問次郎……すみません。いきなり質問なのですが、狭い意味の「奉献文」と広い意味の「奉献文」について確認させてください。
答五郎……ちょっとややこしい感じがするかな。広い意味の「奉献文」とはミサの式次第の中の「感謝の典礼」の中で、これが「供えものの準備」-「奉献文」-「交わりの儀」から成るというときの真ん中の部分を指している。
美沙……冒頭の対話句、叙唱、そして「感謝の賛歌」も、式次第としては「奉献文」に入るのですね。
答五郎……そう。そして「感謝の賛歌」が終わってから、ようやく狭い意味での「奉献文」という、ひとまとまりの祈りが始まる。たとえば、「まことにとうとく聖性の源である父よ、……」とね。
美沙……あっ、第2奉献文ですね、いちばんよく聞きます。ほかに第1、第3、第4というふうに数で呼ばれる奉献文が全部で4つあるのですね。
答五郎……1970年に今のミサが始まったときに奉献文はこの4つになったのだよ。その後いくつかの奉献文が加わっているけれど、基本はこの4つで、ふだんは第2奉献文か第3奉献文が読まれるだろう。
問次郎……狭い意味、広い意味の区別はわかってきましたが、「奉献文」がどうして「文」というのかが疑問です。式次第の一部なら行為を表しているほうが自然です。「準備」とか「交わり」とか。
美沙……私も気になっていました。唱えるというか、全体が歌われますよね。全体が大きな祈りですね。
それなのに、なぜ文字で書かれたものを指す「文」というのかしら……。
答五郎……率直な質問だし、考えるべき問題だと思うよ。信者さんたちは慣れているところがあって、この部分で行われていることがミサのもっとも重要なところだということは経験的に知っている。式次第では「文」と書かれていてもあまり気にしない人が多いかもしれない。
問次郎……外からミサを見学したり、式次第を見たりして学ぶ僕らには、やはり呼び名は気になります。
答五郎……では考えていこう。まず「奉献文」は日本語のミサ典礼書を作る段階で考えられた呼び名だ。
問次郎……もとはなんという言葉なのですか。
答五郎……「プレクス・エウカリスティカ」という。「エウカリスティアの祈り」、直訳すれば「感謝の祈り」だけれど、「エウカリスティア」にはたくさんの意味があって「感謝のいけにえ」 「感謝のささげもの」という意味合いがここでは重要だ。なので「奉献」をメインに訳したのにはそれなりに意味がある。ギリシア語圏の教会で古来この祈りが「アナフォラ」(ささげもの・奉献)と呼ばれてきていることも参考にしたといわれている。
美沙……では、「奉献の祈り」と呼べばいいのに、どうして「奉献文」なのでしょうか。
答五郎……これは推測なのだけれど、昔、ミサがまだラテン語で行われていた時代には、ミサの式次第や祈りの内容を翻訳して信徒が読めるようにした『ミサ典書』があった。その時代は奉献文が一つで「カノン・ロマーヌス」と呼ばれるものだった。これを「ローマ典文」と訳したことがあったらしい。今でいう「第一奉献文」のことで、今も「ローマ典文」が副称として残っている。そのように「典文」と呼ぶ例があるので「奉献文」という言い方が生まれたのかもしれないのだ。
問次郎……「カノン」ということばの意味は何ですか?
答五郎……「カノン」というのは基準とか規範といった意味のラテン語で、いろいろなところで使われている単語だ。教会法もカノンというぐらい。ミサの中でのこの祈りの典範といったニュアンスだ。典文という訳語も適切だろう。もっとも、もっと昔にはラテン語でもさまざまな呼び名があったようで、オラツィオ(祈り)もあれば面白いのはアクツィオ(行い)という呼び名もあった。
美沙……ラテン語で行われていた時代は、司祭がミサ典礼書のこの典文を唱えていたと聞きました。だとすると「文」としてもよかったのかなと思います。
答五郎……実は唱えるというよりも、声を出さない沈黙の祈りとして唱えていたらしい。
美沙……ええっ? ますます今とは違いますね。今は、信徒たちもと最初から全部聞きますし、パンとぶどう酒がキリストの体と血になるところでは一生懸命司祭のことばに聞き入ってうやうやしく礼拝を一緒にしますよね。ほんとうに「祈り」だし「行い」だという気がします。
問次郎……たしかに、ミサでもっとも緊張するというか厳粛な気持ちにさせられるところです。
答五郎……そこまで感じ取ってくれているとは素晴らしい。たしかに「文」どころではないね。奉献文そのものを味わっていくと、ここで行われていることの豊かさもわかってくる。それを一つの名称にまとめるのは至難のわざなのだ。それを踏まえると、全体としてはひとまとまりの祈りという意味で「文」といい、その内容を「奉献」ということばで示すのは、言葉の限界を考えたら次善の策だったといえるかもしれない。
問次郎……奉献文は「文」にして「文」にあらず。少し謎が残ったほうがよいということですかね。
答五郎……では、その豊かさを、次から、まず第2奉献文、続いて第3奉献文を見ながら調べていこう。
(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)