善意の人たちに囲まれて
伊藤 男の子10人、女の子4人を受け入れましたが、戸籍上も親子になったんですか。
後藤 それができないんです。今はどうか分かりませんが、あの頃は、カンボジアの子どもたちを引き取っても、里親になるだけで法律上は何にもないんです。私の戸籍に入れてもいいと言ったんですが、それができないということでした。それは、遺産相続で他の親族に譲りたくないので、里子のような子を自分の戸籍に入れて、その子たちに遺産をやりたいわけではないんだけれども、その遺産を憎たらしき親族に渡さないという手もあったんです。それを防ぐために、一切戸籍に入れるということができませんでした。
伊藤 では、養父として……。
後藤 僕も子育ては初めてです。今で言われたら、たぶん虐待ですね。あるひとつの言葉、絶対言ってはいけない言葉がありました。例えば、ババ抜きをしますと、ジョーカーが来て、「チェンマー」と言うんです。また、茶椀を運んでいて、落として割れたら、「チェンマー」と言うんです。それはいかにも「しまった」という感じでした。ですから私も一緒になって、「チェンマー」と言っていました。
あるとき、大学の先生をやっているカンボジア人にどういう意味かを聞いたら、彼は真っ赤な顔をして、「誰がそんな言葉を使っていますか」と言います。「うちの子どもは全員使っています」と言いますと、「普通の家庭では、カンボジアといえども、そんな言葉を使わせません」と。結局はキャンプの中で、ごたごたした生活をしている中で、いろいろな人がいますからそこで覚えたんでしょう。「その言葉を使わせてはいけません」と言われました。「意味は何ですか」と聞きましたら、「あまりにも恥ずかしくて説明できません」と言います。「僕も意味は分からなくて使っていますが、分かって禁止するのはできるけれども、分からないまま禁止することはできません」と言いました。すると、教えてくれましたが、その言葉はあまりにもひどすぎて。マーというのは母親のことです。自分の母親が侮辱されたように感じてしまって、以後一切その言葉を使ってはいけないと言いました。
「これからもしこの言葉を使ったら、お尻を出せ」。ほうきの柄で思いっきりお尻を叩いたんです。叩かれた奴は、ミミズ腫れになって、夜痛くて眠れなかったと言うんです。あれは、今でいう虐待ですね。そしたら1週間で止まってしまいました。それ以後、私のところの子どもたちは誰ひとり「チェンマー」という言葉を使わなくなって、今に至っていると思うんですけれども。
そんなことがあって、私の教育というか、子どもたちを育てるという面で、行き当たりばったりでした。行き当たりばったりの中で、私としては、この子どもたちが日本に来て、教会に引き取られて、そこで大事に育てられたということだけは、感じさせてあげたいなと思って、やりました。
今でもそのことは話に出ます。彼らは今50歳ですから。50の男が「親父に叩かれて、ミミズ腫れで痛かった」と言っています。
伊藤 私も昔、バングラデシュの子どもたち、現地の貧しい子ども、親がいなかったりとか、極貧の子どもたちの里親制度をしていたことがあります。現地にお金を送っているだけでも大変だったり、里親の方が重荷になったりします。それなのに、生身の子どもたち、それも異国の、最初は日本語もまったく分からない子どもたちを引き受けるというのは……。
後藤 それは何も知らないからできたことです。無手勝流だからできたんでしょうね。お金もなくて、どうやっていったらいいか分からなくて。学校に行ったことがない子どもを、急に私が引き取って、しばらくして学校に行くことになった時に、前の晩震えているんです。それで一緒に寝ようと言って、2人を両脇に抱えて寝ました。それがもう50を超えた親父になってしまいました。
伊藤 でも、「お父さん、お父さん」と日本語で話す姿が映画でも出てきましたけれども、よく育てられましたね。
後藤 でもね、あれはよく育っているのが出てきているだけであって、よく育っていないのは、私の前には出てこないんです。私のところを出た途端に鉄砲玉と一緒で、二度と帰って来ない奴らもいるんです。あそこに出て来たのは、今も付き合っている子たちです。
それだけのことができたのは、たくさんの人の援助です。特に井之頭小学校の先生、武蔵野1中の先生方、理解のある先生方がよく協力してくださいました。小学校の先生で1人の先生は学校が終わってから、校長に特別の許可をもらって、私のところに来て、うちの子どもたちに日本語を教えてくださいました。中学校の1人の先生は、子どもが高校受験になったときに、朝日新聞の天声人語を読んで、先生の家に来させて、読ませて、何が書いてあるか、どういう意味なのかを教えてくれました。教え子を自分の家に呼んで教えるということはできないことですけれども、校長先生の許可を得てやってくれました。命がけで助けてくださった先生もいらっしゃいます。自分のクビがとぶかもしれないということもありました。
伊藤 一人ひとりの善意、無名の方々の善意があったからできたことですね。
後藤 それは本当に助けられたからできたので、助けがなかったら、私は本当に途中で放り出したでしょうね。
伊藤 考えずに、まずはやると決めて、そこから……。
後藤 そうですね。無鉄砲といえば、無鉄砲でした。
伊藤 実際にカンボジアにいらして、その頃はポル・ポトの影響がまだまだある頃ですよね。
後藤 プノンペンの町中に土嚢が積んであるんです。ちょっと田舎に行きますと、土嚢の上に機関銃がついていて政府軍の兵隊がいるというようなところに行ったんですけれど、われわれはあまり危機感がないのか、あまり怖いとは思いませんでした。
伊藤 そんな頃からいらしていたんですね。やっとヘン・サムリン政権になって、町中は押さえたという時期ですね。
後藤 でも町中には軍隊がいました。それがだんだん数が減って、UNTACが入ってきて変わってきたんですけれども、それから今日まで見ていて、あまりいいかたちではないですね。今度総選挙がありますが、どうなるかなとみています。