齋藤克弘
グレゴリオ聖歌の時代からトロープスのできた「あわれみの賛歌」は、聖歌と同様に次第に複数の旋律で歌われるようになります。複数の旋律で歌われるようになると、これもグレゴリオ聖歌の時に書きましたが、定旋律と呼ばれるグレゴリオ聖歌の旋律の部分以外では、次第に元のトロープスとは異なった歌詞が歌われるようになりました。さらに時代が下ると、修道士・教役者が旋律すべてを自分で作曲するようになります。今で言う作曲家の始まりです。グレゴリオ聖歌の旋律にほかの旋律を付けるのは今でいう「編曲」に当たるでしょうか。
このように、自分で旋律を作る作曲家たちは、さまざまな試みを行うようになり、世俗曲の旋律の一部をモチーフ(主題)にして「ミサ曲」を作曲するようになります。このような手法で作曲されたものを「パロディーミサ」と呼んでいます。音楽史では「アルス・ノヴァ」と呼ばれる時代で、およそ14世紀。代表的な作曲家としてギョーム・ド・マショーがあげられます。また、アルス・ノヴァとその前のアルス・アンティカの時代以来多くの作曲家(といっても教会音楽の作曲家)は教役者としてだけではなく、王侯貴族のお抱えの作曲家としても働いていました。ですから、彼らは教会音楽だけではなく、宮廷で舞踏会の時に演奏される舞曲などの作曲も手がけました。このようなわけで、世俗音楽にも精通していたことから先に挙げた「パロディーミサ」が作曲されるようになったと考えられるでしょう。
この後、時代はルネッサンスに移り、音楽の様式も年代と地域によって変わっていきますが「ミサ曲」に対する基本的な考え方は変わりませんでした。ウィキペディアなどでこれらの時代の作曲家を調べてみると、数多くの作曲家の名前を見出すことができます。これはどういうことを意味しているでしょうか。グレゴリオ聖歌の時にも触れましたが、紙はまだ高価なものでしたし、グーテンベルクによって印刷術が発明されたのは1450年、最初の楽譜が印刷されたのは1473年です。この楽譜の印刷も現代のように、一回ですべてを印刷できたわけではなく、五線、歌詞、音符と三段階の工程を必要としました。高価なものですから、印刷したからといって一般庶民の信徒は手に入れることはできなかったでしょう。また、交通機関も現代のように発達していたわけではありません。ヨーロッパの王侯貴族の間で馬車が広まるのは16世紀に入ってからですから、まだ、移動手段は徒歩がほとんどだったでしょう。
このような社会状況を考えると、各地の王侯貴族や修道院、司教座聖堂にはそれぞれの作曲家がいて、その宮廷や聖堂で歌うための「ミサ曲」を始めとする聖歌や舞踏会のための舞曲を作曲していたことは容易に伺えます。もちろん近くの作曲家同士では交流もあったでしょうが、イタリアとオランダとの間とか南フランスとイギリスとの間といった遠い地域間での交流は、楽譜の交換も含めて、まだまだ困難な時代だったと思われます。
話が「あわれみの賛歌」からだいぶ離れてしまいましたが、このような時代状況をきちんと踏まえておくことは「ミサ曲」ばかりではなく、この時代の音楽や教会の状況を理解するうえでも大切なことだと考えられます。「賢者は歴史に学び、愚者は習慣に学ぶ」と言われます。わたしたちが真の意味で、主キリストが降誕されたときに東の国から主を拝みに来た「博士」たちのような「賢者」になるためにも、歴史を振り返り、その時代の状況を精査し、そこから分かることを現代に適応していくことが求められます。それが「歴史に学ぶ」ことなのです。
さて、このように教会の中での聖歌の繁栄は他の芸術の面でも盛んになっていきましたが、その弊害として、教会の制度の面でも芸術の面でも世俗化が進んでいくことになります。教会の中では、しばしば、教会改革が求められてきましたが、なかなか実現する状況にはありませんでした。また、ミサの様態も古代の教会から比べると大きく変化していきます。古代は司教は司祭は祈りのことばを大きな声で歌唱して唱え会衆もそれに応えていましたが、教会が地中海世界だけではなくヨーロッパの特にアルプス以北に広まると、会衆はラテン語を理解できなかったので、ミサの式文も次第に教役者だけが唱えるようになり、一部の式文は「聖なることば」として「沈黙のうちに唱えられる」ようになっていきました。一方でもともと会衆の歌だった「ミサ曲」は会衆全体の代わりに「聖歌隊」だけが歌うものとなったのです。
このように一向に進まない教会改革、また、会衆と遊離した典礼に関して、次第に疑問を持つ空気が教会の中にも現れてきます。
(典礼音楽研究家)