ぼくが入学した高校は全寮制の学校だった。月に1回の外泊が楽しみで、家に帰った時は高田馬場にあるソーブン堂で本を買った。1年生のときに、なぜこの本を手に取ったかは覚えていない。ただ立ち読みしていて、1人の手記に目が留まった。それは早稲田大学の学生であり海軍少尉となった市島保男という人の手記だった。市島さんは学徒出陣で戦場に往き、還らぬ人となった一人である。
昭和16年12月8日の開戦から徐々に日本の戦況は悪化していった。そのため政府は昭和18年9月23日に全国の大学、高等専門学校に在学中の学生の徴兵猶予を停止した。徴兵猶予を停止された全国の学生は、本籍地ごとに分かれて徴兵検査を受け、祖国のためにペンを持つ手に銃剣を持って出陣することになったのである。10月21日、雨の明治神宮外苑競技場で、出陣学徒の壮行会が開かれた。
市島さんは、10月5日の10時半から早稲田大学の戸塚球場で全校生徒が集合し、壮行会が催されたときからのことを記している。
なつかしの早稲田の杜よ。
白雲に聳える時計塔よ。いざさらば!
我ら銃を執り、祖国の急に身を殉ぜん。我ら光栄に充てるもの、その名を学生兵。いざ往かん。国の鎮めとなりて。記念碑に行進を起すや、在校生や町の人々が旗をふりながら万歳を絶叫して押し寄せてくる。長い間、心から親しんだ人達だ。……… 思わず胸にこみ上げてくるものがある。図書館の蔦の葉も、感激に震えているようだ。静寂なる図書館よ。汝の姿再び見る日あるやなしや。
ぼくの父親の実家が早稲田大学の近くにあり、ぼくは幼いころから早稲田大学の周辺で遊んでいた。大隈さんの銅像からすぐのところに図書館があった。その前はよく通っていたから、市島さんの思いの風景は、直に感じることができた。
市島さんは大正11年1月4日生まれだ。ぼくの父親は大正11年5月6日生まれである。同じ年に生まれた2人が、あの頃、早稲田大学の近くで生きている。
市島さんの11月21日の日記。
2人は多摩川園の駅でお互いが思いを寄せていることを語り合う。
構内へ電車が入って来た。「さようなら」と互いに口走る。電車に乗った市島さんは「走り出す電車の窓から彼女と先生の姿が階段に消えて行くのが見えた。ああ、視界から彼女の姿は消え去った。現世において相見ることは恐らくないであろう。私は静かに眼を閉じ、彼女の姿を瞼の蔭に浮かべた。彼女はかすかに笑う。さらば愛する人よ。これが人生の姿なのだ。」と綴る。
「神風特別攻撃隊」による体当たり作戦に、第十四期飛行予備学生が参加したのは、昭和20年3月からだった。予備学生たちは、飛行時間わずか100時間前後という未熟な訓練を受けただけだった。そして、九州南端の鹿屋、国分、串良などの基地からかろうじて間に合った特攻隊員として飛び立っていったのである。
市島さんは、神風特別攻撃隊第五昭和隊の谷田部航空隊に配属されていた。
4月25日の日記。
出撃を待つ市島さんだが、雨が降り続いて竹のベッドが壊れ、廃屋のごとくの兵舎と記す。
4月28日の日記。
そして、両親、ほかの家族、友人の名前を書き、それぞれに一言添えて別れを告げている。
そのなかで思いを寄せる道子さんへ「マスコット道連れに、必殺のなぐり込み。梨の花も半分持って行きます。忘れ得ない懐かしき思い出、いろいろ有難うございました。出撃の前の気持ち、静かにして、鏡の如し。思い残すことは何もありません。
………
散る桜 残る桜も 散る桜
三時出撃の予定にて日の丸の鉢巻きを締め、チャートにコースを入れ、まさに命を待つのみなりしも、敵機動部隊はわが特攻攻撃を恐れ、早くも攻撃圏外に逃れつつあり。ついに出撃を取止む。
翌4月29日になり、いよいよ出撃を迎える。
この沖縄方面の作戦は、8月15日の終戦まで続き、約1800機の特攻機が出撃したという。
ぼくは、寮室でこの本を読み進むうちに、市島さんのような青春を犠牲にする戦争があったことに腹が立った。
いまここにいる自分は幸せではないか。市島さんたちの殉死の上にいまの平和があることを、ありがたいことだと肝に銘じている。
(鵜飼清/評論家)
ご存知かと思いますが、市島は、谷田部航空隊から鹿屋基地に向けて愛機を操縦しながら、川崎の自宅上空をどんぴしゃり通過します。 決して帰る事の無いわが家。 彼はその時何を思ったのでしょう。もちろん彼にしか判りませんが、それを考えると自分は、何故か涙が流れて仕方がないのです。谷田部航空隊跡のほとりに住む者の思いとして。