齋藤克弘
これまで、楽譜の発展について書いてきました。数世紀を経て、楽譜が次第に複雑になっていくと同時に、それはまた、音楽の多様性を表すためのことであることも理解していただけたと思います。今回からは、その楽譜が発明されるきっかけを作った音楽について書いていきたいと思います。
楽譜の発展のところでも書きましたが、楽譜が発明されるきっかけとなったのはグレゴリオ聖歌と呼ばれる教会の祈りの歌です。グレゴリオ聖歌のグレゴリオとはローマ教皇(日本では法王と言うことが多い)の一人で、紀元590年から605年にかけて在位したグレゴリオ1世を指します。巷説(こうせつ=いわゆる伝説)では、神から降った聖霊がグレゴリオ1世教皇に働きかけて、グレゴリオ聖歌を作らせたとされていますが、それはあくまでも伝説。もっぱらの説は、中世ローマで教役者(きょうえきしゃ=聖職者)の養成のために作られたスコラ・カントールム(聖歌学校)を作ったのがグレゴリオ1世だったという説ですが、現代ではおよそ100年後代の同名の教皇グレゴリオ2世(在位715年から731年)がスコラ・カントールムを作ったとの説が有力です。
このグレゴリオ聖歌、わたくしより少々若い方、そうですね、恐らく40代くらいの方なら20世紀の終わりごろに、スペインのサント・ドミンゴ・シロス修道院の録音で爆発的に人気を博したことを覚えておられると思います。このごろは、あまり聞かなくなりましたが、過日フランスのローザンヌ・バレーコンクールを見ていたところ、グレゴリオ聖歌をBGMにして踊っていた15歳の少女がおりました。ま、これほどヨーロッパではなじみ深い音楽であるともいえるわけで、特にフランスの近代から現代の作曲家たちは何らかの方法で、グレゴリオ聖歌を自分の曲に取り入れています。ベルリオーズ、ダンディー、そしてメシアンなど、名前を数えたらきりがないかもしれません。
このようにグレゴリオ聖歌は時代を超えて、ヨーロッパの音楽に影響を与えていますが、その歴史は紆余曲折、複雑怪奇と言ってもいいような道を歩んできました。それは、グレゴリオ聖歌が単に教会の祈りの歌という純粋なところでとどまっていたのではなく、教会におけるさまざまな出来事や音楽を演奏する芸術家の活動とも複雑に関係していたことがいろいろな課題や問題を複雑にしてきた要因でもあるのです。
次回からグレゴリオ聖歌がどのように歴史の波にもまれていったのかを何回かにわたってみることにしたいと思います。その中で気を付けていきたいことは、教会の祈りの音楽という美しさだけではなく、人間の活動という歴史の事実をしっかりと見定めてゆくことを忘れないようにしていくことです。
(典礼音楽研究家)