戦争と本当の平和を考える


中村恵里香(ライター)

世界では今もロシアやイスラエルによる戦争が行われています。本当の平和とはどんな状況をいうのでしょうか。日本では、80年間戦争はありませんでした。でも、本当に平和なのでしょうか。2024年の統計では日本の自殺者は2万人を超えるとなっています。2万人を超える自殺者の出る国が平和と言えるのだろうかとふと考えることがあります。

そんなとき、80年前の戦争のことを考えました。私の両親は広島で生まれ育ちました。第2次世界大戦中、中学生だった父は、被爆者です。ですが、原爆が投下されたときことを、私がいくら聞いても答えてはくれませんでした。ただ、父は文芸評論家でしたので、残された本の中に当時のことが書かれていました。その本、『閃光の記憶から 生と死のあいだ』(上総英郎著 マルジュ社刊 1991年)から一部引用し、ご紹介します。

昭和二十年八月六日、朝八時十五分——

一瞬の尖光のあと、地ひびきとともに空は黒くなり、工場は倒れ、私たちは下敷きになった。潰れた屋根の下から這い出した私たちは級友を救け出し、火傷を負った人々を近くの陸軍病院に運び、あちこち燃えはじめた民家に水をかけたりしていたが、やがて散り散りに火の海の中を逃げはじめた。防火用水に上衣をつけ、それを頭からかぶって火の粉をよけながら広島市中を走り抜けた。幸いにも私の家族は市中から一つ山を越した民家に疎開していた。

足に釘を踏み抜いていたのに、それに気づかないほど走って私は疎開先に帰った。家族はぶじだった。爆風で天井が落ちたが、それだけのことで、その夜は山中の防空壕で山の向こうに燃える広島市内を眺めつつ、浅くまどろんだ。

翌日、私は工場に行ってみると言い張り、父と共に市内を見下ろす丘の上に登った。日曜ごとに登っていたこの丘は二百米くらいの高さで、そこから街を眺め、海を眺めるのに快い場所であった。しかしこの日、私は一面に焼け爛れた市中を見下ろして文字通り慄然とした。一望するところ殆んど瓦礫の焼土と化し煙がくすぶっていた。木造建築の多かった市中に二つか三つ、コンクリート建築が黒こげになって見えていた。目をうるおす緑は遠くにはなく、裸の木の幹が救いを求めてさし伸ばした腕のよう空に突き出ていた。

(中略)

私は市中に行き、工場が焼けなかったことを知った。家を失った友人たちは近くの女学校の校庭で野宿をしていた。炊(た)き出し隊が来て握り飯を配給してくれた。私たちは焼け跡につるはしを持って行き、軍に納める缶詰工場から業火を浴びた缶詰を掘り出しておかずとした。そこは爆心地のすぐ近くだったのだ。これが後に原爆病の因となる。

(「被爆少年のレクイエム」)

きわめて個人的体験だが、その闇の中から炎があらわれてくる。広島市を一夜にして焼き尽くした原爆投下後の炎の街——その中を私は友人二人と共に、文字通り無我夢中で逃れて行った。空をたちまち雲が覆い、黒雲から黒い雨滴が降り注いだ。すでに業火の中を駆けぬけた後のことであったが、黒く光るアスファルトの路傍に、顔面が焼けただれ、黒髪も焼けてしまった女性の死体が白い腿もあらわなままに含羞を忘れた無残なすがたで仰向けに横たわって居り、その白い腿に黒い雨滴がぽとぽとと落ちていたのが、昨日のことのように目のうちによみがえってくる。奇妙なことに私の網膜のスクリーンは黒枠になっていて、その中に惨死体や燃え熾る炎が卵形に浮かび上がるのである。

(「いまわしい二十年間」)

ここに取り上げた父の文章は、原爆の様相を描いたものだけですが、その本の中では原爆投下を大量虐殺(ジェノサイド)と言及しています。このような悲惨な体験は広島や長崎にいた人間にとって同じように目の前にあった惨劇です。

身体の弱かった私は、東京の光化学スモッグの影響で具合が悪くならないようにと夏休みや春休みは広島で過ごし、被爆者と共に生きてきました。小学生の頃、なぜアメリカは日本に原爆を落とさなければならなかったのか、そして祖父母はそれに対してどう思っているのか聞いたことがあります。その疑問に対して仏教徒である祖母は、「偉い人のことはわからないけれども、人を恨んだり、憎んだりしてもなにもいいことはない。それよりも人を赦すこと、そしてお互いに話し合い、分かち合うことが大切だ」と教えてくれました。

第2次世界大戦では、日本は被害者であると同時に加害者でもあります。大東亜共栄圏という壮大な野望を胸に戦争を起こしていると考えるからです。アジアの方々に大変な苦難と悲劇を与えたことは、私たち日本人は大いに反省しなければならないことだと思いますが、その反面、各都市に落とされた大空襲や沖縄戦、そして原爆投下などによって、多くの非戦闘員が死を迎えねばならなかったことを日本人として忘れてはならないと思っています。

では、私たち戦後世代がどのように戦争の記憶を後世に伝えることができるのか、実際に経験していないことをどのようにしたら伝えることができるのか。いくつかの映画がそのことを伝えています。そのひとつに以前紹介した「満天の星」があります。祖父母や両親から伝え聞いた話を一人でも多くの人に伝えること、それは二度と同じ過ちを起こさないための一つの手段のように思います。

 


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です