聞き手:鵜飼清(評論家)
太平洋戦争時、ポートモレスビー作戦に参加し、戦死した小山勲の魂は闇の中をさ迷っていた。
ある日、勲は「神の島」と呼ばれる島に流れ着き、そこで肉体を持つ。
それは未練を晴らし成仏するための島が与えたものだった。そして、家族の消息を探しに80年ぶりに日本を訪れるのだが……。
うかい:まず谷口広樹さんのプロフィールからお聞かせください。
谷口:1976年に大阪で生まれました。大学で東京に出て早稲田大学の社会科学部に入りました。そこで中国の近現代を学びました。劉傑先生に教えていただきました。いまでもご健在でいらっしゃいます。社会科学部は総合的に学べるところなんですごくよかったと思っています。
うかい:映画の道というのはいつごろから意識されたのですか。
谷口:大学のときに、労働運動といいますか、そうしたものに少し関心があって、山田洋次監督の「民子三部作」というのがありまして、労働者がメインの話がありますが、そういうのを観ていたときに、早稲田に「名画座」というビデオレンタル店があったんです。そこでアルバイトをすることになりました。名画座には山本薩夫監督の映画とか、どちらかというとTSUTAYAには並ばないような左系の作品とかがありました。店員は自由に借りて観れたんです。世界の名画なども観ていて、それでちょっと面白い世界だなと思いました。
映画と言っても撮影所システムも崩壊してますし、就職口なんかないんですよ。普通の就職口もありませんでしたね、あの頃は。就職氷河期なんです。
うかい:谷口さんが生れた年は、ぼくが大学を卒業した翌年になります。ぼくも社会科学部を卒業したのですが、そのときは石油ショックで就職難でした。しかしそこからの時代は大衆社会となり大衆文化が勢いを増していく頃です。全共闘の先輩たちは企業戦士へと変身していきます。日本がビジネスでアジアへ企業進出していくわけです。そういう時代に育ちながら、なにか社会問題に関心を持っていたということでしょうか。
谷口:祖父が戦争に行っていて、話してくれることがショックだったのですが、戦争の話をするときは必ず鼻血を出しているんです。そういうのを見ていて少し関心を持ちました。
早稲田に入ったんですがなんにもしてくれないんですよ。いまなら就職するためのガイドなんかをやってくれるでしょうけれど、あの頃はほっぽらかしなんです。教授に質問に行っても、イヤホンを付けて逃げてるとか。それで嫌になっちゃって、これは日本に居てはダメだと思って、交換留学制度があったので、それを使いました。当時はみなアメリカに行くのですが、韓国、中国はマイナーだったんです。1999年でした。誰も行く学生がいなくて、これなら勉強しなくても行けるんじゃないかと思ったら、第一位で選ばれまして、それで韓国に留学しました。
韓国はIMFの経済危機に陥っていて、北朝鮮と金大中が「太陽政策」をしていて激動のときだったんです。それが自分にとっては影響が大きかったんじゃなかったかなと思います。韓流映画とかもまだ来ていない状態でした。なので、普通の韓国人を観れたような気がします。交換留学も無料でした。早稲田大学は延世という大学に学生を送りたいわけです。単位もすべて交換してくれました。
うかい:1990年代を見てみると、前の年の1989年にベルリンの壁が崩壊し、1990年に東西両ドイツが国家統一されます。1991年にはソ連共産党が解散という時代でもあります。日本では1995年に地下鉄サリン事件が起きています。1998年に金大中韓国大統領が来日していますね。
韓国に関しての意識はまだ持っていますか。
谷口:まだありますね。クリスチャンにすごく関心がありまして。北朝鮮にも隠れクリスチャンがいるようで、そこへの問題意識はあります。
うかい:1980年代には韓国では「民衆の神学」という運動がありました。詩人の金芝河さんの活動とかが話題になっていましたね。
それではここら辺で『神の島』への関わりをお話しいただこうと思います。
うかい:谷口さんは遺骨収集をされているのですね。そのことがこの映画づくりへのきっかけになったようですが。
谷口:映画への道と言っても、映画業界に入る道はないわけです。大学5年生になっていて、テレビ業界に就職はしたのですが、使い捨てのような感じなんです。当時は不景気ですし。そのとき祖父がフィリピンに遺骨収集に行きたいと言っていたのですが、80歳を超えていたので、体調が思わしくなかったんです。それと祖父が行こうとしている場所はゲリラがいるんです。ミンダナオ島といって、南の方の島なんです。なかなかそこまでは行けないだろうという話になって、じゃあ私が代わりにということなんです。それで遺骨収集に参加して行ったんです。まあ祖父の影響が大きかったですね。
うかい:お爺さんは戦没者の遺骨収集に積極的だったのですね。
谷口:それもありますし、やはりあの社会情勢ですかね、なにをやってもうまくいかないような時だったんですよ。あこがれて就職しても使い捨てですよ。なんにも教えてくれないし。なんでこんなところに居るのかなということがありましたので。これならもう少し違うところに行ってみようかなと。ちょっと迷いがあったと思います。
うかい:そういう精神的な状態の中で遺骨収集に参加して、土を掘りながら戦没者の遺族の人たちの話が聴こえてきたわけですね。骨は出てくるものなんですか。
谷口:現地の情報を元にしていますから、骨は出てきます。あの当時で60年は経っていますから、なかなか見つかりづらいのですが。元兵士のお爺さんと遺族のかたたちの熱気が違うわけです。必ずや見つけて帰ろうという。
掘ってると、見つからないんだけど、なにか対話をしているような感じがするんです。亡くなったかたとね。
「まあお前にいろいろなことがあるだろう」と、「日本にいろいろあるだろうけど、おれの分までがんばってくれよな」みたいな対話みたいなことが作業なのかなという気持ちがしたんです。
それとお爺さんと遺族のかたたちと一緒にご飯を食べながら、毎晩ジャングルのなかの泊まる場所で、話を聞くんです。当時戦場に居たお爺さんは、戦友が倒れていったけれど助けられなかったんだと言って泣くんですよ。
周りには蛍が飛んでいまして、蛍は自分のお父さんの生き写しだと言って「お父さーん」と叫ぶんです。それが胸に迫ってきてたまらないんです。
土を掘って骨が出てくるんですけど、その骨が本当に日本人であって、それがお父さんであるかどうかは判らないじゃないですか。でも見えた瞬間に飛びついて泣くんですよ。
当時はDNA鑑定がまだ進んでなかったんです。今でもなかなか難しんですけど。ぼくは出てきた骨が日本兵のものではないんじゃないかなと思ってたんですけど。
うかい:そういう話を聞いていて、映画にしたくなった。
谷口:そうですね、聞いたことを映像として伝えられないかなと思いました。
当時でも元兵士のかたや遺族のかたは相当のお歳でしたので、自分ができることはそれぐらいかなとちょっとは思っていました。