余白のパンセ 20 閑味な外川ラーメンの追憶


千葉県の外川というところに一軒家を借りていたことがありました。銚子駅から銚子電鉄に乗って終点が外川駅です。ここは漁師町で、主に釣り人で賑わっています。

なぜ外川に行ったかというと、高校時代の友人が定期的に外川でヒラメやタイの釣りを楽しんでいたからです。友人いわく「外川に泊まるところがあれば釣り宿に世話にならずにすむからなあ」とのこと。

その友人と一緒に、海に近くで気に入った家を見つけました。その家に「パピルスあい海の家」と名付けました。わたしの蔵書を運び込んで、2週間ぐらい滞在することもありました。

一人で居るときは、炊事・洗濯もしながらの読書という事になります。駅の近くまで行って、総菜を買ってきます。良かったのは大好物の豆腐が、お豆腐屋さんで買えたことです。このお店はテレビでも紹介されていました。一丁が大きくて、とても美味しいお豆腐でした。わたしの毎晩の晩酌のお供にしていました。

わたしは釣りはしませんから、もっぱら読書三昧の日々となります。夜にはたった一人で波の音を聴きながら本のページをめくっていました。

唐木順三さんの『良寛』(ちくま文庫)という本のなかに、唐木さんがとても好きだという詩が紹介されています。

〽蕭条三間屋

終日無人観

独坐閒窓下

唯閒落葉頻

〽蕭条、三間の屋

終日、人の観る無し

独坐す、閒窓の下

唯聞く、落葉の頻りなるを

唐木さんは、「閒窓の閒は閑、静かな窓のもと、深閑とした部屋の中。聞くは聞くであるとともに聞こえてくる。全世界が頻りなる落葉の音、ひびきばかりなりという風情。己が落葉を聞いているのか、落葉が落葉を聞いているのか。禅家はこういう状態を、心、境、倶(とも)に忘れずというのだろう。」という解説をされています。

わたしは、「海の家」で静かさを体験していました。東京の新宿とはまったくちがう漁師町の一隅で、聴こえてくるのは波の音ばかりです。くり返し、くり返し、波がやってきては崩れて散っていく音です。外川は岩盤が広がっていて、地盤が固いといわれます。「海の家」の近くにも岩礁が見られました。波はそこへ寄せては岩に砕かれていきました。

わたしが思うのは、そのときに「己が落葉を聞いているのか、落葉が落葉を聞いているのか」ということを「己が波の砕けるを聞いているのか、波が波の砕けるのを聞いているのか」というところまでいっていたのかなということです。

確かに、独りで閑居していることで、来し方を想う時間をいただいた。しかし、己の生死を見つめ、生きることに真なる意味について瞑想していたようには思えないのです。

いま、東京の新宿のアパートの一室で、「海の家」のあのときを想うことで、唐木さんのいう「心、境、倶(とも)に忘れず」との領域まで思索する気持ちへと導かれています。

読書しながら、昼間はときどき外川港の方へ散歩に出かけました。港には釣り船が何艘も横づけられていました。堤防を歩きながら

、海鳥の鳴き声を聞き、海風を受けているときがとても気持ちが好かった。

港の近くに小さな中華そばのお店があります。おばちゃんが作ってくれる中華そばが美味しくて食べるのが楽しみでした。それでときどき訪ねました。このお店には漁師の人たちが集まっていることもありました。釣り船が台風の時に転覆したというような話も聞きました。海は穏やかなときばかりではないんですよねえ。

中華そばをいただいて、しばし港を歩いていたときのわたしの心境を、井上洋治神父の詩に託しました。

「この

どこまでも青くすんだ

透明な秋の空に

一粒の涙がこぼれたとしたら

その涙は

白い雲になって

この秋の空を

静かに流れていく以外には

ないのだろう」(『風の薫り』「秋の空」1994年11月4日)

鵜飼清(評論家)


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