田口哲郎(つくば教会)
ソウル・フードという言葉はもともとアメリカ南部に居住するアフリカ系アメリカ人の伝統的な料理を指すものだったそうです。それが2000年代の日本に入ってきて、列島各地の郷土料理という意味を派生したとのこと。地元の人びとの「ソウル」を象徴するふるさとの料理ですが、伝統的で質素な和食というよりも、むしろボリュームのある特産品をふんだんに使ったB級グルメという印象があります。たとえば、私が住んでいる茨城県のソウル・フードはスタミナラーメン、納豆カツ、納豆オムライスだそうです。お腹いっぱいになりそうな料理ばかりです。
ソウルとは英語のsoulのことで、和訳は魂ということになります。日本でのソウル・フードは魂ががっついて、腹を満たすということでしょうか。
ところで、魂とはなんでしょうか。肉体と魂はよく対立項に置かれます。死んだら肉体から魂が抜けてゆくというイメージは馴染み深いものでしょう。魂を定義する知見を私は持っていませんが、少なくとも、魂は人間のものであるということ、しかも肉体に縛られない、いわば霊的なものだと分かります。
すると、ソウル・フードは、宗教的な文脈では、肉体ではない人間の領域を満たす食べ物ということになるでしょうか。真っ先に浮かぶのは「人はパンだけで生きるものではない」という御言葉ですね。40日間の悪魔の試しに対してイエスさまが言われた福音です。人間が本当にがっつくべきなのは、パンではなく、神の御言葉なのだと教えておられます。
また、聖書にはイエスさまが5つのパンを増やして5000人以上の人びとに与え、さらに余ったパンで12の籠がいっぱいになった奇蹟が記されています。これは神の御言葉が無限であり、神は全能で人間を日々生かしてくださるというメッセージが込められていることは分かります。でも、神さまが私のような食いしん坊のお腹を現実的にパンで満たしてくださる、という読み方も私は好きです。人の魂はパンではなく神の御言葉で生かされるものだけれども、パンがなければ肉体は生きられないということを、イエスさまは当然ご存知なわけです。
聖なるものと食べ物の不思議な変化を私たちはごミサで目の当たりにして、キリストのからだをいただくことができます。ご聖体を拝領するとき、私たちはまずは舌で、喉で、胃袋で神を味わい、そしてまさに聖なる食卓の荘厳さのなかで、魂で神を味わうことができるのです。
私はまったくもって出来の悪い、俗物の、愚かな信徒ですから、ソウル・フードはなんですか?と問われたら、ついつい母が作るマカロニ・グラタンです、と答えてしまうでしょう。しかし、心のなかではそっと、私のソウル・フードは聖なるホスチアです、とも言いたいですし、そう言えるように、ご復活の希望に向けて祈りたいと思います。