春3月になって、陽射しを暖かく感じるようになると、学校では卒業式のシーズンになります。友達との別れの悲しさと、新たな学びの場への希望と喜びとが入り混じった心境の時が訪れます。
この季節になると、私も高校の卒業式を思い出します。いまから半世紀以上も前のあのときのことを鮮明に思い出せるのは、一枚のメモが残っているからです。
高校の制服の胸ポケットに入れておいたこのメモの一片には、卒業式のときに私がスピーチをした言葉が書かれています。それを、母親が残しておいてくれました。
実は、卒業式には同期の優秀な生徒がスピーチをすることになっていました。私は卒業式実行委員の友人に「落ちこぼれの人間が、寮生活でなにを感じたかを話してもいいだろう。ぼくに話させてくれないか」と直談判しました。すると、その友人が「同窓会の3期代表幹事になってくれるのならいいよ」と言うのです。
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卒業式の前日に、同室の仲間と一緒に寝る最後の晩は、全寮生活3年間のことが走馬灯のように過りました。そして、卒業式当日は晴天のなかで、講堂(体育館)にて行われました。私は名前を呼ばれると演壇に上り、メモを取り出して話し始めました。
卒業式にあたって
この卒業式にあたって、たった3分間(5分間)で3年間の秋川における、いろいろな生活を話そうとしたところで、とうてい話せるものではない。
かと言って 「じゃ、あと1年残るか」と言われたら?
冗談じゃない!(ここの言葉を特に強調して) 外出・外泊のたびに、解放感にひたり、5時45分になれば、あたかも、磁石にひきつけられているかのように戻ってくる。
今、この卒業式が我々3期生のものかと思うと、全く、信じられない気持ちで、いっぱいである。 夢じゃないのか!
ある者いわく「卒業証書なんか破いちゃえ!」
私は、額に入れて、飾っておきたいね! 何しろ、私の忍耐と努力の結晶だ! 正直に言って、全寮制は、僕には合わなかったようである。 ホント! 今思い出しても、楽しかった思い出などありゃしない。 腹の底から楽しかったこと! それは、寮を離れて、心おけない友人と、かってなことを言いあい、わがままも、そこでは通ったこと! 僕には自慢できる友人がいる。 少なくとも、自分では、そう思っている。
3年間での寮生活での収穫、それは真の友人を得たこと、それのみ! (こりゃ少しオーバーか? ま、こういう、ずうずうしさが身についたのも、その一つ)
秋川の先生は皆若い(ここも強調) ここで、僕があえて言わせていただけば、理論より実行! つまり行動で、我々をリードしてほしかった。 若いんだもの(ゴマする)
僕には合わなかった寮生活、 だけれども、必ずこの3年間の経験は、無駄にしない! 何故か? それは、高校3年間という、もっとも大事な青春を、ここで過ごしたのだから!
最後に一言、 3期生の諸君、 (間を入れて) 「ありがとう!」(大声で)
終わると、盛大な拍手をいただきました。先生方や学校職員の方たち、父兄の来賓者、4期生・5期生の後輩たち、そして3期生の仲間に頭を下げて演壇を下りました。
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私たち3期生が退場するとき、玉成寮寮歌を4期生・5期生の後輩たちが合唱してくれました。寮歌で送られて東京都立秋川高等学校を卒業できました。
公立高校では初めての全療制学校でしたから、私たち3期生が入学してようやく3学年が揃い、学校の体制になったわけです。先生方は学校での授業と寮での舎監を掛け持ちで、いわば24時間の教員をされていました。いまから思えばたいへんだったにちがいないのです。しかし、私も先生方も若かった。みな経験のない、まさに「全寮制の学校生活」を過ごしていました。あの頃に手本になるモデルはありませんでした。無我夢中の3年間でした。そのことを卒業式のスピーチで率直に話したかったのです。
いつも周りには誰かが居る、しかし、自分は孤独です。精神的な内面性は嫌でも鍛えられます。自己内対話が続くからです。集団生活、団体生活、共同生活とはそういったものです。
3年の時に同室だった友人の奥さんがぼくたちにこう言いました。
「あなたたちって、秋川高校から成長してないのね」
高校の教師をされていた奥さんの言葉は、私にとっては核心をついていました。
〽北辰薄らぎ 東雲の
静寂の際に 聳ゆるは
我らが三歳の 夢託す
秋川廻る 玉成寮
(玉成寮寮歌1番)
余白のパンセ 3 わが青春譜 全寮制高校での3年間
鵜飼清(評論家)