ドイツ、ポーランド、ウクライナのキリスト教徒からロシア の正教徒へ(前編)


大井靖子・訳(カトリック調布教会)

 

はじめに(訳者より)

「ある日、聖体拝領を終えた兵士に、『神父さま、ご聖体をいただ私がどう して前線に行けるでしょう? 神父さま、今、私はキリストのお体をいただき、神さまと一体になったのに、どうして人を殺しに行けるでしょうか?私の中におられるキリストが人を殺すことになるんです。私が殺されたら、私といっしょにキリストも殺されてしまいます。どうしたらいいんでしょう?』と聞かれた。私は返す言葉もなく、ただ黙っていた。頭の上では『どうしたら いいんでしょう?』という兵士の言葉が雷のように鳴り響いていた。」 これは、第一次世界大戦中、ロシア帝国軍の従軍司祭として、南西戦線に派遣されたロシア正教のスピリドン(キスリャコフ)神父著『教会の前の司祭の告白』*の一節です。

ロシアによるウクライナ侵攻が続く中、前線には今も同じように、こうした問いに責め苛まれる兵士と、答えるすべもなく、立ちすくす神父がいます。 スピリドン神父は、戦時の典礼に加えられた『聖なるロシアの勝利のための祈り』に、「これは血に飢えた祈りではないか!……私たちの信仰はどこにあるのだろう?教会、否、正確に言えば教会を代表する私たち自身が殺人を擁護し、奮い立たせ、こんな恐ろしい世界的罪悪を、キリストの受難に匹敵 するような宗教的偉業であると聖化し、手助けしているのだ!」と嘆き悲しみ、怒りに体を震わせます。 ロシアによるウクライナ侵攻が始まって半年後、スピリドン神父のときと同 じように、『聖なるロシアの勝利のための祈り』がモスクワ総主教庁から出され、この祈りを典礼の中で唱えることを拒否し、反戦の意志を表明した司祭は典礼を禁止され、聖職を剥奪され、迫害を受け、国外に逃れ、新しい地で司牧活動に就かれた司祭もいます。そうした苦境にある反戦司祭を、精神的・経済的に支える目的で誕生した「すべての人に平和を」(Мир Всем/本部はハンブルグ:訳注)は、支援と同時に停戦の呼びかけも行っています。昨年の10月には、「すべての人に平和を」の発起人のひとりアンドレイ・コルドチキン長司祭(ドイツ在住)らが参加して、 『ドイツ、ポーランド、ウクライナのキリスト教徒からロシアの正教徒へ』 という手紙が作成され、ドイツ、ポーランド、ウクライナのキリスト教徒だけでなく、全世界のキリスト教徒に賛同を訴えています。

*出典:モスクワ 出版社 эксмо 2018

 

アウシュヴィッツ発の、この手紙の作成時の賛同者である私たち、ドイツ、ポーランド、ウクライナのキリスト教宗派の代表者たちは、世界中のキリスト教徒に向かって署名を呼びかけます。どうか神が、署名者の声に耳を傾けてくださいますように!

手紙を読んで、署名しましょう。そして友人たちにも広げてください。

マンフレッド・デセラーズ神父、オシフィエンチム対話と祈りのセンター

ゲロルド・ケーニッヒ、「パックス・クリスティ」、ドイツ支部

ロベルト・ジュレック博士、欧州相互理解のためのクシジョワ財団

ステファン・バトルフ神父、国境地帯精神文化財団

アンドレイ・コルドチキン長司祭、プロジェクト「すべての人に平和を」

エドワード・カワ、コンベンツアル聖フランシスコ修道会、リヴィウ大司教区補佐司教

2024年10月30日、オシフィエンチム**

 

私たちが差し出す手を握ってください

戦争が続いています。どうしたら終わらせることができるか、だれにもわかりません。この暴力と破壊の海で、多くの人びとが「神はどこにおられるのでしょう?」と問うています。悪と衝突しようと、わたしたちの神への信頼は打ち砕かれることはありません。わたしたちはこのことを確信をもって言いたいのです。神は愛です、愛は究極の言葉です。

私たちは、この手紙を通して、連鎖的に増大する一方の暴力と破壊を止めたいのです。この手紙は、きっといつか、握り返してくれるという希望をもって、ロシアの正教徒の皆さんに差しだす、私たちの手です。

戦争には武器がつきものです。武器製造にどれだけ力を入れたかとか、分析や戦略について対策を練ったかとか、そうしたことがよく話題になります。しかし、戦争の根本には、考え方、価値観、認識、アイデンティティーの違いがあります。権力欲の背後にあるのはなんでしょう? なぜ、ミサイルは飛ぶのでしょう? なんのために? 結局、戦争とは霊的な問題です。私たちは戦争を解決するために 、どれだけ霊的に追及し模索しているでしょうか?キリスト教徒として、私たちは双方の対立を霊的に展望し、霊的に接近しなければなりません。つまり、対立する双方に、どうやって神の愛を届けられるか、それを考えなければいけません。私たち、キリスト教徒は常に政治や軍事の枠を超えた解決策を探さなければなりません…。この手紙を通して、私たちが見つけようとしているのは、まさにこのことです。私たちの目標は平和です。それは、歪められ、破壊された相互関係を回復し、正義と赦しと和解を取り戻すことです。

今はまだ、そうしたことを話す時期ではないと思う人もいるでしょう。けれども、和解の例として、しばしば取り上げられるドイツ人とポーランド人との和解は、ドイツの敗戦以前に始まりました。まだ、重大な戦争責任者として何人かに判決が下され、処罰される以前でした。ドイツのプロテスタントとカトリックの教会が自分たちの罪と責任を認め、長く苦しい道を歩みだす以前でした。

ドイツでの和解例の多くは、戦前、人間の基本的人権を守り、国家社会主義に抵抗した人びとから始まりました。戦後は、小さなグループが大きな役割を果たしました。その例として、カトリックの「パックス・クリスティ」運動や、「あなたの国のために何かよいことをしよう」という取り組みのもと、「行動・償いの印・平和奉仕」ASF有志によるアウシュヴィッツ悔い改めの巡礼があります。同様に重要なのは、ポーランドの司教たちがドイツの司教たちに送った「私たちは赦し、赦しを求めます」という有名な言葉が書かれた手紙です。それは1965年、戦争が終結して 20 年後のことです。

こうした取り組みは、多くの場合、大きな抵抗にあいました。なによりもすべての人の尊厳を大切にする、今日のドイツ社会に基本的刷新の道が整えられたのは、そうした取り組みのおかげです。ドイツ社会は、以前、戦った国ぐにから、民主的で自由な社会として、信頼を取り戻すことができました。

和解は可能である。これはロシアがウクライナに戦争を行っている現在、私たちにとって希望です。私たちは、ただ待ってはいられません。兵士たちが、前線の両側で死んでいくのを、ただ黙って見ていることはでききません。だからこそ、私たち、ドイツ、ポーランド、ウクライナのキリスト教徒はロシアの正教徒の皆さんにこの手紙を送ります。私たちの心の痛みから生まれた手紙です。いっしょに神のご意志を探し求めましょう。

 

キリストにおける兄弟姉妹の皆さん!

戦争で兄弟姉妹が殺し・殺されている今、兄弟姉妹と呼びかけるのがためらわれます。しかし、私たちはキリスト教徒として、前線の両側で主の祈りを唱えます。神がすべての人を創られ、罪や犯罪を犯したときでも、愛し続けてくださることを信じています。神が私たちを愛しておられるからこそ、ノアとの契約を新しくされ、アブラハム、イサク、ヤコブと契約を結び、預言者が説教し、この世にキリストが来られたのです。神は私たちも、あなたたちも、「西洋」の人びとも、アジアやアフリカの人びとも愛しておられます。どこまでも限りのない神の愛です。

 

なぜ、ロシアはウクライナを憎悪するのでしょう?

この戦争のねらいは、ロシアがウクライナの独立を認めず、滅亡を望んでいることにあります。ウクライナ人がロシアの一部にならなければ殲滅です。これはジェノサイドです。なぜ、ロシアはウクライナ人による国の自治を許そうとしないのでしょうか?なぜ、ウクライナの子どもたちを再教育のために強制的に移住させ、占領地域を強制的にロシア化するのでしょうか?なぜ、ロシア人はウクライナを管理しなければロシア人と見なされないのでしょうか?ウクライナのあらゆるものに対する、この憎悪はどこから来るのでしょうか?

ソ連邦崩壊後の、1990年代のイデオロギーの空白と混乱状態を埋めるために、ロシア正教会はロシア人をキリスト教によって統一することが求められました。しかし、キリスト教に無神論の共産主義イデオロギーと同じような帝国主義的果実を実らせようとしても、それは間違いでしょう。力でキリスト教を説くことは、キリスト教を破壊することです。ロシアが、キリストの名においてウクライナに爆弾を投下するたびに、ロシアは自分の国のキリスト教を殺しているのです。

ロシアでは、伝統的価値観を守るために戦争を行っていると言います。しかし、実際はどうでしょう? 統計的に、ロシアの離婚と中絶は非常に高いのです。宗教的活動もそれほど盛んではなく、教会へ通う人も西側の国々より低いのです。爆撃によって、ロシアとウクライナの人びとの信仰が強まるとでも思っている人がいるのでしょうか?

第二次世界大戦(ロシアでは大祖国戦争と呼ばれている:訳注)を通して、ドイツ人は他の民族を奴隷化し、滅ぼそうとしました。人種差別主義と反キリスト教イデオロギーに突き動かされてのことでした。現在、ウクライナに対して戦争を行っているロシアでは、キリスト教を論拠にこの戦争を正当化し、聖戦と呼んでいます。これはおぞましい偶像崇拝であり、キリストご自身に対する裏切りです。なぜロシアは、キリスト教の愛と慈しみの証しと、ひとりひとりの尊厳をなによりも尊重する土台の上に文化を築かないのでしょうか?

ウクライナには自らを守る権利と、人びとを守り、占領や暴力を防ぐ義務があります。愛する人が殺されようとしているとき、住む家や日常の生活様式が破壊されようとしているとき、多くの人が傷つき、負傷し、障害者にさせられようとしているとき、将来が見通せないようなとき……、こうした極限状態にあるとき、ウクライナのキリスト教徒にとって、キリストが近くいてくださることは大いなる慰めです。絶望せずに互いに助け合う力を与えてくださいます。キリストの自己犠牲は、戦場に立つ兵士の心にも生まれます。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)

残念なことに、ロシアが今、行っている攻撃的で破壊的な戦争は、ロシアのすべてと、ロシア人のすべてを憎悪する原因になりかねません。しかし、みんながみんな等しく悪いわけではありません。憎しみはキリスト教を破壊します。

戦争とは、侵略者と犠牲者の会話を不可能にさせ、お互いの目をまっすぐに見ることができず、憎み合い、関わり合いを拒否することです。私たちの間には深い淵が生まれ、渡る橋も、交流も、対話もなくなります。

キリストは憎しみを克服します。キリストは私たちを引き離す深い淵を埋めるために、ご自分の命を捧げてくださいました。

**アウシュヴィッツはドイツ名、本来のポーランド名がオシフィエンチム。この手紙はアウシュヴィッツ解放(1945年は 1 月27日)80周年記念を前に書かれました。


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