ママのばか(5)育休は権利


片岡沙織

前回は、イエスの父ヨセフの話に少々触れました。今回もまた、父親のお話をしたいと思います。大まかには、私のパートナーの話をしようと思います。ただ、私のパートナーに、この記事を読まれると気恥ずかしいので、知り合いの方は、ここでのことはどうぞ内密に(笑)。

思い起こしてみれば、私の実の父は、ほとんど家にいませんでした。子どもの頃は、父親が深夜に仕事から帰るのは当たり前で、母が家庭を切り盛り。母がすべての家事を務め、我々子どもたちの世話もすべて母がしてくれていました。父は家事をすることはほとんど無く、食卓につけば食事が出てきて、席を立てば後片づけを母が開始する。そのような家庭でした。家事を怠っていれば、「まったくお母さんは……」と嘆かれていたりして。私や私の姉弟は、それが当たり前だと思って育ちました。それに加え、父は長男、一人っ子で跡取り息子だったため、当然のように父方の祖父母と同居し、すべての下働きをするのは嫁である母の務めと決まっていました。今、どんなに母を尊敬してやまないかは、またの機会にしますが、今日ここで書きたいのは、今社会はすでに変化している、ということです。

まず、我が家の平日を例に挙げてみましょう。朝は、母である私が朝ご飯や保育園に持っていく水筒を準備。父である夫は子どもたちに食事をさせ、着替えをさせ、歯みがきをさせます。そうこうしているうちに、母である私が先に家を出る。夫は、子どもたちを保育園へと送り、職場へと向かう。夕方は、母である私が保育園にお迎えに行き、夕食を作って食べさせ、お風呂に入らせ、2人の歯みがきをして、絵本を読んで寝かしつける。(この間、100万回くらい子どもたちを叱責。)そうこうしているうちに夫が帰宅して、子どもたちがちらかした部屋を片付け、掃除をして、入浴後洗濯。子どもが寝付いて、ひと段落した後、今日1日の子どもたちの様子を共有する。というのが、平日のルーティーンです。

さらには、私は土曜日にも仕事をしているため、土曜日はまるまる夫がワンオペ。皆さんから見たらまだこの状況は不十分だとお思いになる方もいらっしゃるでしょうか。私にとっては、我が家の夫婦の家事育児の役割分担は、50:50だという実感があり、この状況にとても感謝しています。

現在、家事育児をほぼ完璧にこなす夫ですが、やはり最初は違いました。子どもたちが産まれた当初は、何か男のプライドのようなものがあったらしく、「男がこんなことするなんて」というような想いが見え隠れしている時期がありました。そのためか、おむつ替えをするのも積極的ではなく、乳児の頃は子どもたちが泣けば、夫に「ママ呼んでるよ」と声をかけられ、私が子どものもとへと駆け付けていました。

しかし、双子だから、2人で泣く。同時に。すると、夫婦で同時に子どもたちを抱き上げるほかは選択肢がなく、夫もどうしても育児をやらなければならない状況に陥ったのです。最初こそ、母である私が子育てするのが当たり前、と思っていた夫でしたが、それもほんの束の間でした。双子が大きくなればなるほど(とはいっても、まだ4歳ですが)、手はかかるようになっていきましたが、反対に彼は、どんどん子育てを上達させていき、否が応でも子どもとの関係性を深めていったのでした。そしてまた、これが大きなことですが、夫の顔つきが変わっていきました。彼の子どもたちに対する笑顔といったら、これほど幸せなことは無い、というような表情をするようになっていったのです。

前回も触れましたが、これが「愛着形成」なのだと感じます。子どもが保護者から大切にされることで形成される「愛着」もあれば、親が形成する「愛着」もあるのだと知りました。子どもばかりが、親から愛をもらうわけではないのでしょう。実際、親は子どもから途方もないほどの愛をもらいます。その愛は、親が「この世に産まれ、これまで生きてきてよかった」と思わせる程の大きな影響力を与えます。夫は、子どもたちを世話することで、子どもたちからの愛情をつきることのないシャワーのように受け、深く愛される経験をしてきたのだなと感じます。言葉が話せるようになった子どもたちは今、夫に対して自分たちの愛情をこのように表現します。「パパ、だいすち」と。

ところで夫は、あまり恵まれない境遇で育ちました。あまり詳しくはここでは書きませんが、幼いころに親元を離れて育ち、「家族団らんというものを知らない」とつぶやいたりする男。現にあまり感情が顔に出ず、どちらかと言えばクールな印象を人に与える彼でしたが、子どもたちと接するうちに、どんどん変化していったのでした。親の愛情を知らない、と言っていた人が、いつの間にか愛情を表現するようになっていき、充分に愛情を子どもたちに示すようになっていきました。

日本では、男性の育休の取得率が伸び悩んでいると言います。東京都などでは、産休・育休は休みなどではなく「育業」だと言い換えをし始めました。家庭の家事の時間を時給で換算すれば、莫大な金額になると言う人もいます。仕事は報酬が支払われる「ペイドワーク(有償労働)」であるのに対し、育児は「アンペイドワーク(無償労働)」であるとも言われます。確かに、仕事も育児も似たところがありますが、違うところもあると、私は思うのです。

決定的に違うのは、向き合う相手が何物にも代えられない我が子だということでしょう。我が子と対峙出来る時間は、そう長くありません。子どもが愛着を形成する重要な時期に、親もまた愛着を形成していく。その期間は、何物にも代えられない唯一の賜物だと感じます。ここでさらに言いたいのは、これまでの日本社会は、男性たちからそのような大変貴重な機会を、奪ってきたのではないだろうか、ということです。育休こそ、親の権利なのではないでしょうか。人生の最高の喜びを得る権利なのではないでしょうか。

今、私や夫が子どもたちの保育園の送り迎えをするとき、同じタイミングで顔を会わせるのは、4割以上が父親ではないかと感じます。「妻が勤務する会社が遠方なので、平日は僕がワンオペです。」「妻の体が弱いので、家事育児全般は僕の役目です。」都市部の保育園は、基本、両親がフルタイムで働いているなど、何らかの要因で子育てをするのが難しい家庭(他に、親が病気であることや、シングルファザーやシングルマザー、多胎児であるなど。自治体により内容は異なる)が優先的に入ることが出来ます。そのため両親で家事育児を行う家庭が、周りに多いことはあたりまえなのかもしれません。しかし、これこそが、現代社会の大きな変化を示していることの一つだと思うのです。家庭で、男女による役割分担をする時代は、そろそろ斜陽に向かっているのかもしれません。それは足音が聞こえにくい、ゆっくりとした小さな変化かもしれません。しかし、すでに新しい価値観はどんどん広がっており、今時代が変わっていっていることを、実感するのです。

 


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