まず、「イエスの復活」についての次の5つの聖書の箇所を読んでほしい。
1. | イエス、女性たちの前に現れる | (マタイ28章1~10節) | |
2. | マグダラのマリアに現れる | (ヨハネ20章11~18節) | |
3. | エマオで弟子たちに現れる | (ルカ24章13~35節) | |
4. | イエスとトマス | (ヨハネ20章24~29節) | |
5. | ガリラヤで弟子たちに現れる | (ヨハネ21章1~14節) |
「これらの箇所に共通することは何か」と中学3年の女子生徒たちに質問してみた。彼女たちはいつもながらきわめて率直である。
「なんかへん。幽霊みたい。」
「なんで皆それがイエスとすぐに気づかないのだろう。ずっと一緒にいたのに気づかないなんて変だよ」
「弟子たちがそれがイエスだと気づくとイエスはまた消えてしまう」
復活したイエスは確かにその前のイエスとははっきりと違う姿あったようである。
それがイエスであると気づくきっかけは何だったのか?と続けて質問する。
「パンを裂く」
「イエスの傷に触れる」
「網をおろすように指示する」
などのシンボリックな何かであった。
なぜイエスは誰もが否定できないような復活の証拠を残されなかったのか?
なぜ弟子たち以外のたとえばファリザイ派の学者の前に出現されなかったのか? もしそのように出現されたら、それは歴史的な事実となってもっと多くの人がイエスを信じたのではなかったのか? このこともまた私たちの想像力をかき立てる。
このイエスの復活について、わたしは次のように生徒たちに説明する。
確かにイエスの復活について歴史の中で証明するのは聖書しかない。しかし『イエスが復活した』というキリスト教徒がいたということはユダヤ人の歴史書やローマの歴史書に残っている。これは歴史的な事実である。
イエスが十字架につけられて殺されたあとに、弟子たちは皆失意のうちにちりじりとなった。あるものはふるさとに帰ろうとした。
しかし何かがあって彼らは希望を取り戻し、再び集まって教会を作り、布教活動を始めたということも歴史的な事実である。この『なにか』の宗教体験を『復活したイエスとの出会い』であると福音書は記しているのである。
つまり、失望から希望へ、失意のうちから立ち直って勇気を取り戻し、以前のような弱虫でない使徒へと変身していくそのきっかけを与えたものが「復活したイエスとの出会い」であった。これこそまさに「復活」ではないのか。復活したイエスと出会った弟子たちも〈復活〉したのである。
参考 http://tsuchy1493.seesaa.net/article/394055845.html
(土屋至/元清泉女子大学講師「宗教科教育法」担当)