中村恵里香(ライター)
第二次世界大戦で、日本で唯一の陸上戦を戦った沖縄は、戦後アメリカ統治の期間が続きます。そのとき、沖縄のためにアメリカの弾圧を恐れず、正面を切ってNoと言った男がいます。その人は、瀬長亀次郎といいます。
1907年(明治40年)、沖縄県島尻郡豊見城村に生まれます。沖縄県立第二中学校から、東京の順天中学に進学し、鹿児島の旧制第七高等学校に進みますが、社会主義運動に加わったことを理由に放校処分になります。
名護町助役、沖縄朝日新聞記者、毎日新聞沖縄支局記者を経て、1946年にうるま新報(現在の琉球新報)社長に就任します。在任中に沖縄人民党を結成に参加したことで、アメリカ軍から圧力を受け、うるま新報の社長を辞任します。その後、沖縄人民党書記長となり、1950年に沖縄群島知事選挙に出馬しますが、落選。1952年第1回立法議員総選挙では最高得票数で当選しますが、琉球政府創立式典で宣誓を拒否したことで、アメリカ軍から好ましからざる人物としてマークされます。
1954年、沖縄から退去命令を受けた人民党員をかくまった出入国管理命令違反で、アメリカ政府は瀬長を逮捕し、懲役2年の刑に処せられ、投獄されます。このときの裁判は、たった一人の証言を証拠とし、弁護士もつけられない裁判でした。出獄した1956年、那覇市長選挙に出馬し、当選します。
公然と反米を掲げる人民党の幹部である瀬長にアメリカ国民政府は、琉球銀行による那覇市への補助金と融資の打ち切りや、預金凍結などを行い、市政運営が危機を迎えますが、多くの市民が、市政を支えるために自主的に納税し、財源を確保しようと呼びかけた瀬長に呼応し、市政運営の危機を脱します。
1957年、高等弁務官のジェームス・E・ムーア陸軍中将が布令を改定し、1954年に投獄されたことを理由に、瀬長を追放し、被選挙権を剥奪します。この府令は、俗称瀬長布令といわれています。
1967年、瀬長布令が廃止され、被選挙権を回復すると、翌年には立法議員選挙で当選します。
その後、沖縄が日本に復帰すると、沖縄人民党から衆議院議員として当選し、沖縄人民党が日本共産党と合流した後も、1990年政界から引退するまで国会議員として、沖縄のために戦い続けます。
この瀬長亀次郎の生き様を描いたドキュメンタリー映画があります。「米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名は、カメジロー」と「米軍(アメリカ)が最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯」です。なぜアメリカが彼を恐れたかのかは、映画を観ると、くわしく分かります。また、国会議員となってからの国会での佐藤栄作首相とのやりとりは観るものにその迫力を感じさせます。
この2作、亀次郎という人がなぜここまで戦うのか、そして亀次郎の生き様をTBSのキャスターだった佐古忠彦氏が監督を務め、描いています。アメリカ統治時代も含め、膨大な映像をていねいにまとめた作品です。今の沖縄を考える上で、貴重な映像です。ぜひご覧ください。
本文後段で、「その後、沖縄が日本に復帰すると、衆議院議員として当選し、1990年政界から引退するまで国会議員として、沖縄のために戦い続けます。」とありますが、沖縄人民党は1973年に日本共産党と合同し、瀬長さんは日本共産党副委員長として沖縄選出の衆議院議員を務めました。佐古忠彦さんが共産党の応援団と間違われることを嫌ったためか、無所属出馬ともとれる単なる「衆議院議員」として紹介しているからと言って、晩年も共産党副委員長として正々堂々と闘った今は亡き人の履歴を勝手に偽るのはどんなものでしょうか。参議院選挙前なので「遠慮」したものならば、この特集は選挙後に紹介してもよかったのではないでしょうか。個人的には、わたくしは、選挙の中で沖縄のことが争点になってほしいと思ってはいますが。
こんにちは、AMOR編集部です。
この度は貴重なご意見をありがとうございました。ご意見はその通りだと思いましたので、記事を少し修正いたしました。なお、こちらは映画の内容に沿って記述していたものであり、必ずしも参議院選挙を意識していたわけではございません。
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。