100年目の『カトリック新聞』~~その歩みが示すもの


石井祥裕(AMOR編集部)

はじめに

日本のキリスト教系メディアのうち最も歴史の古いのが『カトリック新聞』なのではないだろうか。

宗教業界紙にあたる新聞では、仏教界では『中外日報』が1897年(当初『教学報知』、1902年から『中外日報』)、『仏教タイムス』が1946年、『聖教新聞』が1951年、神道界では『神社新報』が1946年、キリスト教界では『キリスト新聞』が1946年、『クリスチャン新聞』が1967年、『聖公会新聞』が1948年(2015年休刊)と、圧倒的に戦後出発が多いなか、『中外日報』に続いて古く、キリスト教世界では最も古い新聞ということになる。

日本では総人口に比して圧倒的に“少数派”の宗教として定着しているキリスト教の中でも、これだけの歴史を持っている新聞ということで、『カトリック新聞』はもっと注目されてよいのではないか。それは、宣教におけるメディアの役割を考える立場からもそうではあるが、第三者として、日本の宗教と新聞メディアということに興味をもってみると、特筆すべきものがあるのではないか。

 

二つの文献

100年目を歩んでいる『カトリック新聞』の歴史を見る上で、二つの資料が重要に思われる。一つは、『カトリック新聞 2500号記念 苦難を越えて55年の歩み 先人に尊敬と感謝を献げて』(カトリック新聞社 1978年5月25日 非売品)という冊子である。発行者は当時専務理事であった三浦平三神父(生没年1925~2007)、編集者は当時の編集長・塚原嘉平治氏であった。塚原嘉平次氏は、『新カトリック大事典』(研究社)でも「カトリック新聞【日本】」という項目を執筆している。この二つの資料から浮かんでくる100年の歩みの意味するものをピックアップしておきたい。

 

信徒の青年会から始まった

『カトリック新聞』の起こりは『公教青年時報』にある。これを生み出した「公教青年会」は、暁星中学校出身有志で1916年に発足したもの。この会の歩みは、有名な山本信次郎の活躍を通して知られる。同会は、1920年に雑誌『カトリック』を創刊。そして、1923年1月1日に『公教青年時報』を創刊している。発刊の辞では「今の騒々しい文化生活の中に正しい道を示し、くさびとなり塩となっていく」という抱負が語られている。青年会という信徒のグループから始まったことは、記憶しておきたい。山本信次郎という人物の重要さは、最近、あらためて、『福音宣教』誌(オリエンス宗教研究所)における大瀬高司神父(カルメル修道会)の2カ年連載(2019~20)や皿木喜久著『天皇と法王の架け橋 軍服の修道士 山本信次郎』(産経新聞出版 2019年)などでも注目されている。

現在の『カトリック新聞』の通算号数はこの『公教青年時報』から始まるが、公教青年会の機関紙にとどまらず、公共新聞へと本格的に出発するのは、その年1923年5月1日発行の第9号からで、このときとった名称が『カトリックタイムス』であった。

 

「カトリック」を名称に入れた

『カトリック新聞 2500号記念 苦難を越えて55年の歩み 先人に尊敬と感謝を献げて』(カトリック新聞社 1978年5月25日 非売品)

カトリック教会の宣教を雑誌や新聞で実践していこうという動きは明治からあり、1881年創刊の『公教万報』が最初。これは、1885年に『天主之番兵』と改題される。1889年には『公教雑誌』というものが創刊される(後に『公教学術雑誌』、さらに『日本公教雑誌』と改題)。このようにカトリックは「公教」と自らを呼んでいた時代だった。ちなみにプロテスタントは「基督教」、正教会は「正教」と呼ぶならわしで、「基督教」が総称とはされるが、カトリックの「公教」はそれに含まれながらも、微妙な違いの意識もあったのだろう。ところが、公教青年会の中では、「カトリック」という呼称を雑誌や新聞で使い始めたことが注目される。会の機関紙という段階でのニュースの掲載をメインにしつつ、またカトリックの教えの真相を広く世の中に訴えていくという、護教的でもあり宣教的でもある理念からだったことが『2500号記念』誌に寄せられている回想記事から窺われる。

それにしても、『カトリックタイムス』という名称は、斬新というしかない。しかし、これらの紙誌で表現された「カトリック」意識は、だんだんと日本の教会を方向づけていったことがわかる。戦後は、公式の組織としても「カトリック」というようになっているからである。今、「カトリック」として自らを考える先駆けに「カトリックタイムス」があるのではないか。

 

全国紙へと発展した

『カトリックタイムス』の発行主体は、依然公教青年会であったが、その事務所(発行所)は、1928年、当時の東京市麹町区下六番町の麹町聖テレジア教会内に仮移転した。1931年1月、『カトリックタイムス』は『日本カトリック新聞』と改題、また発行主体であった公教青年会が1930年に解散したことにより、新聞発行業務は1931年からカトリック中央出版部(1929年組織)に移管されることになる。これは、「信徒団体の合法的完成と出版物統制」という教会方針によるもので、これをもって「全日本各教区共有紙」へと合同、拡張されたのであった。

このような経緯から、教会の組織の発展と、代表的新聞紙の全国、全教区紙としての発展が絡み合っていることがわかる。メディアが有する、一単独教会、一教区を超える役割への自覚が鮮やかに見てとれる。1932年には、田口芳五郎神父(後の枢機卿、生没年1902~78)がローマ留学から帰国し、カトリック中央出版部長兼編集総主任となる。1934年、全国カトリック出版物委員会が発足し、日本カトリック新聞の全国的普及がいっそう図られる。この時期、岩下壮一神父(生没年1889~1942)や戸塚文卿神父(1892~1939)らの活躍があった。その後、戦時体制に向かうなか、1941年、カトリック教会自体が、宗教団体法に基づく「日本天主公教教団」として認可され、『日本カトリック新聞』は教団直属の「日本天主公教団出版社」の発行となる。戦時下の1937年には用紙不足から発行もままならなくなり、ついに1945年2月25日号をもって休刊となった。

 

戦後、『カトリック新聞』として新たに出発した

教会組織と新聞の帰趨は互いに絡み合っている。1945年11月、「日本天主公教教団」は解散され、「天主公教教区聯盟」が発足。『日本カトリック新聞』は『カトリック新聞』と改題され、教区聯盟の機関紙となる。編集は上智学院内の教区聯盟出版部が行い、印刷・営業は、聖パウロ修道会に委託され、発行所は中野区江古田にあった中央出版社となった。

1948年5月、「天主公教教区聯盟」が「カトリック教区連盟」と改称された。1920年代に使われ始めた「カトリック」呼称が正式な教団名称に入った記念すべき時となる。新聞発行所は、中央出版社からカトリック新聞社に変更され、同年11月、千代田区六番町に新築された教区連盟事務所に編集所も一本化された。

 

聖パウロ修道会に23年間、委託されていた

それまでの動きから見ると、年譜的には不思議なのだが、1950年に『カトリック新聞』の編集・営業が聖パウロ修道会に全面的に委託され、発行所は四谷に移転していた中央出版社(現サンパウロ)に変更される。編集長は同会のグイド・バガニーニ神父(生没年1910~94)。『2500号記念』誌にあるパガニーニ神父の寄稿がこのあたりの経緯を物語っている。目標としていたのは、「インフォメーション(情報提供)とフォーメーション(養成)」の両面であったと語り、さまざまな立場の意見が「声」欄に凡例されるなか、中道を歩むように努め、そのため「教皇のことば」を意識的に多く載せるようにしたと語っている。

いずれにしても、この体制で23年間、とりわけ1960年代の第2バチカン公会議前夜、その開催時、直後の変動期といった、きわめて重要な時代を聖パウロ修道会は担っていたことになる。パガニーニ神父の寄稿によると、狭い意味で修道会の会員だけでなく、信徒の社員、司祭、信徒の知識人などの執筆者、外国ニュースに関しては、メリノール会やコロンバン会などにより、幅広い協力体制が作られていった大事な時期だったようだ。

 

日本司教団直属の機関紙になった

1973年5月、定例司教協議会総会で、かねて聖パウロ修道会から申し出があったカトリック新聞の司教団への返還が承認され、1949年から1月からは司教団の直接責任下に置かれることとなり、その基本方針が1973年7月8日号で発表されている。「カトリック新聞は、日本司教団の所有であり、司教団の機関紙であるが、それは、狭い意味の司教団にとどまらず、むしろ、日本のカトリック教会の機関紙と解すべきである。したがって、日本カトリック教会の最高指導機関である司教団(司教協議会)の意向を十分に反映するものでなければならないが、また日本カトリック教会を構成する司祭、修道者、信徒のものであることも忘れてはならない」。狭い意味での“御用新聞”とならないようにとの戒めが、その意識を物語る。

1974年、千代田区六番町のカトリック中央協議会の敷地の一角に「カトリック新聞社」の社屋ができ、そこが正式に発行所となった。以後、1992年には江東区潮見に新築された日本カトリック会館内にカトリック新聞社は移設され、カトリック中央協議会の新聞事業部としての一体化が進んでいくにしても、1973年発表の方針で現在に至っている。その意味で、2023年は、カトリック新聞の創刊100周年であるとともに、カトリック司教協議会のものになって50年という二重の画期的な年になる。

 

もし、カトリック新聞がなかったら?

『カトリック新聞』100年の歩みを、ざっとこのAMOR誌上でまとめてみた。新聞のあり方が、日本のカトリック教会の成長、その中央組織の進化と一体のものであることがわかる。発信メディアをどのように位置づけて、支えるかは、教会の使命の核心をなすものであるかもしれない。

実際に教会生活に交わっていると、そんなにだれもが『カトリック新聞』を購読しているわけではないが、『カトリック新聞』があること、それに何か知っている人のことやかかわった出来事の報道が載ることの意義は、だれもが認めている。一定の質にあることの評価を内蔵している全国の教会の公共物であることは、すでに定着している。

もし、カトリック新聞がなかったら、どうだろう。一つの教会で教会生活を営んでいても、主任司祭、仲間の信徒との関係だけで終始してしまいかねない。世界とのつながり、全国の教会の有り様を覗く上では不可欠なものであり、われわれの意識の基盤をかたちづくっているはずである。

 

その歴史を共有しながら

紙媒体として、100年営みが続いてきている意義は、もっと評価していくべきものだろう。そして、今、新聞の編集・営業に携わっている方々の働きにももっとエールを送ってしかるべきだろう。

インターネット時代における発信の最新化は、この100年の実績の上で考えられていくものであろう。毎週の紙媒体の発行は、大変な仕事であり、その発展に向けて気持ちも意識も向けているひまはないかもしれない。そこは、司教団はもちろん、司祭も修道者も信徒も、この新聞が自分たちのものであるとの意識をもって、ともに考えていかなくてはならないものなのだろう。

最近の新聞のまぎれもない主人公である教皇フランシスコのメッセージは、カトリック新聞のあり様にも大きな刺激と支えと激励になっているにちがいない。信者でない人でも、メディアの役割、というか、生きる力とも光ともなる“ことば”を求めているすべての人にとって、カトリック新聞の100年の歴史は、かかわったすべての人の働きを想像させつつ、弱さと苦心と努力の跡とともに、いっそう心を打つものとなってくるにちがいない。

 


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