SIGNIS JAPAN (カトリックメディア協議会)主催のインターネットセミナー(「教会とインターネット」セミナー インターネットが拓く新・福音宣教)は今年で第26回を数えます。今回は、2022年2月19日(会場:東京都新宿区・聖パウロ修道会若葉修道院、Zoomとのハイ・ブリッド開催)に開催、日本カトリック司教協議会の広報担当司教である酒井俊弘司教様を招いて、「酒井司教様とともに教会の広報について考える」という企画になりました。教会広報のそもそもの原点からあらためて考えていこうというテーマでのお話と自由討議の会となりました。
まず、酒井司教の自己紹介です。
大阪教区補佐司教の酒井です。広報に関してまとまったお話をするという機会は初めてです。1960年3月23日、兵庫県芦屋市で生まれました。父が戦争のあとに洗礼を受けており、私は兄、姉ともに、カトリック芦屋教会で幼児洗礼を受けました。六甲学院高校卒業後、教師を目指して大阪教育大学に入り、卒業後、精道学園(長崎市)に勤めました。オプス・デイの会員になっていましたので、それから司祭になるための勉強をし、1985~90年にイタリアおよびスペインに留学し、1988年にスペインで司祭叙階を受けました。1990年、帰国後、精道学園に復職し、歴史や宗教を教えました。2004年から芦屋のオプス・デイ属人区日本地域本部に勤めながら大阪教区の司牧も手伝い、教区の典礼委員会も担当し、2007~11年には聖トマス大学でキリスト教概論なども教えていました。
2018年7月16日、大坂教区補佐司教に任命され、司教に叙階されました。カトリック中央協議会で学校教育委員会や諸宗教部門を担当していましたが、2019年11月(23~26日)の教皇フランシスコ訪日の際には、広報担当となり、日本に同行してくる海外記者たちの受け入れを任されました。その際に日本のさまざまなメディア関係者とも知り合いになりました。その関係からか2020年から広報担当の司教を任されています。現在は中央協議会の広報課の人たちと一緒にいろいろと考えながら仕事を進めています。
講演は、広報とは何かについて四つの側面があるのではないかというお話からスタートしました。
a)メディア(medium=「間」にあるもの、つまり「情報媒体」)
b)コミュニケーション(communis 共通 catis する、つまり「共有すること」)
c)広報 (情報を広めること)
d)SNS (Social Networking Service)
これらの側面または要素について、次のように問いかけられます。
これらのうち天国においても残るものは何でしょうか。天国がどういうものか、地獄のことから考えるとわかりやすくなります。地獄は自分しかいないところです。一緒にいる人と会えるということがありません。神もいない、だれもいない。これが怖いことです。それに対して、天国は、神とともにいるし、すべての人とも一緒にいられるところです。
こう考えると、上の4つのうち何が必要でしょうか。情報媒体は必要ない。直接一緒にいるからです。広報も必要ない。SNSもいらない。残るのは、コミュニケーションです。いわば、人は、コミュニケーションのために天国に行くのです。地上で、いろいろな人とコミュニケーションをするということは、いわば天国が始まっているということだといえるのです。
そして、愛についての教えがすなわちコミュニケーションについての教えでもあると語られます。
愛について聖書が教えているところ聞いてみましょう。「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(一コリント13:13)――天国に行ってしまえば、信仰と希望は必要ない。もう神さまと一緒にいるわけですから。でも愛はあります。三位一体の神のうちに、父と子と聖霊のコミュニケーションがあります。それが外に出て行って創造となり、人間とのかかわりになっています。最も大いなるものは愛であるということは、最も大いなるものはコミュニケーションであるということだと思います。
また、イエスは「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい」と言われます(ルカ12:33)――天国に物を持っていくことはできません。残るのは、人とのつながり、コミュニケーションです。この人と一緒にいたい、というつながりは、天国にも続く。地上に、そのようなつながりがなければ、天国でもない。そのためには、いかに多くの人とコミュニケーションをつくるかが肝要です。
続いて酒井司教は、今年の「世界広報の日」(第56回、日本では復活節第6主日、5月22日)のための教皇フランシスコのメッセージを、コミュニケーションの大切な心得として、紹介されます。
第56回「世界広報の日」のテーマは「心の耳で聞く」です。教皇は、今は、「『聞く』ことが人間のコミュニケーションに不可欠であることが確認され、重要な新しい発展を遂げつつあります」と語っています。自分の権利主張のときは大きな声を上げるが、はたして聞くことはできているか、ということは教皇がよく問いかけていることです。
「心の傷の治療に慣れたある高名な医師が、『人間にとって最も必要なものは何か』と問われたことがあります。彼はこう答えました。『聞いてもらいたいという限りない欲求です』」
私たちは、広報に携わるとき、どのように発信しようか、と、発信のことばかり気にしがちです。しかし、ベースにあるべきなのは、“どのように聞くことができるか”ではないでしょうか。司牧の場合と同じです。たしかに人の声に耳を傾けることは時間がかかります。しかし、だれかのために割いた時間は、きっとあとで戻ってきます。じっくり聞いたものでしか味わえないものが味わえるのです。
そして、「教会においても、互いの話に耳を傾けことがとても必要です。それは、私たちがお互いに提供できる最も貴重で生産的な贈り物なのです」と語り、ボンヘッファーのことば「神の言葉を語ることができるように、神の耳をもって聞かなければなりません」を引用しています。神の耳をもつというと、聖徳太子を連想して、たくさんの人の話を同時に聞くことと思うかもしれませんが、むしろ、一人の人の話をとことん聞くことができる耳なのではないでしょうか。
さらに、酒井司教は、人の話を聞くことの前提になる神のことば、神の話を聞く時間と場が、まさに「祈り」であるとも語り、教皇自身が引用しているヤコブの手紙の教えに注目させてくれます。
教皇フランシスコは、また、「司牧活動において最も重要な仕事は、使徒ヤコブが勧めているように、話す前に耳を傾ける『耳の使徒職』です。「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅くなりなさい」(ヤコブ1:19)。自分の時間を惜しまず、人々の話に耳を傾けることは、最初の慈善行為です」と語っています。
私たちは「口の使徒職」を果たす前に、まず「耳の使徒職」を果たすことが求められているのです。
このあと、酒井司教のお話は、カトリック教会で進められている2023年のシノドス(世界代表司教会議)を目指す教会の取り組みについて、まず互いに耳を傾け合うプロセスとなることが重要とされていると紹介してくれました。さらに、デジタルメディアにどうしても不足するものがあることを指摘し、コミュニケーションが汗や匂いや温もりをもったものになるべきだとする教皇のことばを紹介します。
教皇フランシスコは、回勅『兄弟の皆さん』(43項)で語っています。
「『デジタルメディアは、依存、孤立化、具体的な現実との接触の漸進的喪失といった危険に人をさらしかねず、真の対人関係の発達には妨げとなります』(使徒的勧告『キリストは生きている』88項)。身体の動き、表情、沈黙、身振り手振り、さらには匂い、手の震え、赤面、汗までもが欠かせないのです。これらすべてによって語るのであり、それは人間のコミュニケーションの一部なのです。……(中略)……ネット上の関係は、橋を架けるには足りず、人類を結び合わせるには至らないのです」
酒井司教が教皇のことばを紹介しながら指摘されたことは、「インターネットが拓く新・福音宣教」は不可能ではないかという逆の問いかけさえも含むものです。しかし、それは、“人の匂いがする情報”を伝えることによる新しい可能性への期待ともなっています。酒井司教は、このあとそうした温もりある情報を伝える広報活動の例をいくつか紹介してくださいました。
教皇フランシスコの私的な相互訪問
https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2022-01/incontro-del-papa-con-la-signora-edith-bruck.html
Rome Reports 配信の動画
https://www.romereports.com/en/2022/02/15/vatican-firefighters-rescue-a-cat-from-the-colonnade-around-st-peters-square/
酒井俊弘司教の今回の講演は、広報の根幹をなす、神とのコミュニケーション、人とのコミュニケーションに欠かせないものを聖書と教皇のことばをベースに、明らかにしてくれていました。それは、カトリック教会の中だけでの関心事にとどまらず、だれにでも求められていることのあかしであったと思います。現代的なメディア(コミュニケーションの手段)をよりよく生かすことの根本にあるべきことについての、このような共通の確認から、広報活動の展開の道が新たに見えてくるのかもしれません。