2025年はニカイア公会議から開催1700年の節目であり、かつ、第二ヴァティカン公会議閉会60年の年でもあります。教会や学界など様々な場で勉強会が開かれましたが、歴史や神学に馴染みのない一般の人々からすると、そもそも「公会議って何?」という事から始める必要があるのではないでしょうか。特に教皇フランシスコが示したシノドス的教会や新教皇レオ14世の選出で教皇への関心が高まる中、「公会議ってシノドスと何が違うの?」といった疑問や「公会議と教皇はどちらが優先されるの?」という興味が高まっているように思われます。そこでこれより隔月で、公会議の歴史を簡単に振り返りながら、教会の歩みを学ぶ「ナーニ? 公会議」のコーナーを始めていくこととなりました。どうぞよろしくお願いします。
“共に歩む”キリスト者の姿
さて、初回の今回は、公会議の歴史に入る前に、初代教会における会議について考えてみたいと思います。
そもそも、「唯一の神、全能の父」を信じるキリスト者が集まり会議をするということに意味はあるのでしょうか?真理である神の啓示さえあれば十分であり、信徒は疑問を持つことなく、その教えに従順に帰依するだけでいいのではないのでしょうか?そんな疑問の声も聞こえてきそうな気がしますが、実はキリスト者が会議の場で話し合うというのには聖書的な根拠があるのです。
生前、イエスは「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(マタ18・20)と約束してくださいました。そして主は五旬祭の日に聖霊を遣ってくださいました。こうして創設された教会は、聖霊による一致の内に歩みを始めましたが、その道のりは平坦なものではありませんでした。「キリストによって キリストとともに キリストのうちに、聖霊の交わりの中で」生きるはずの教会は、実際は、調和よりも対立と分裂の歴史を歩むこととなります。「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。私は敵対させるために来たからである」(マタ10・34-35)という主の言葉が思い起こされます。
“最初の公会議”
教会が最初に経験した大きな分裂は、異邦人にもユダヤ人の律法を守らせるか否かという議論でした。
イエスが活躍したのはユダヤ人が多い地域であり、弟子もほとんどがユダヤ人でした。しかし、福音がユダヤ人以外にも拡大するにつれ、ユダヤ教の律法とは無縁の異邦人が洗礼を受けるようになっていきました。教会の中の保守的な人々は、そうした非ユダヤ人のキリスト者も律法に従って割礼を受けるべきであると主張しましたが、聖パウロらは反対の意見を述べていました。こうして初代教会は、ユダヤ人の古くからの律法を受け継ぐべきなのかどうかという点を巡り、大きく二つに分かれてしまいました。
教会が分裂しかねない状況の中、使徒たちや長老たちはイェルサレムに集い、この問題を協議することとなりました。これが使徒言行録15章に記される、いわゆる「イェルサレム会議」です。
ある意味で初の公会議ともいえる「イェルサレム会議」で、聖ペトロは異邦人には律法を守る義務はないことを宣言します。そして「聖霊と私たちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことにしました」(使15・28)という手紙を各地の教会に送り、この問題を解決させました。
聖書が伝える「イェルサレム会議」から、キリスト教の会議の二つの側面を見てとることができます。その一つ目は、教会の会議は、人の理性と弁論術によってのみ運営されるのではなく、聖霊の導きに信頼して「共に」(syn/シュン)「歩む」(hodos/ホドス)ものであるべきであるということです。教会会議を「シノドス」(synodos)と言いますが、その名前はまさに「共に歩む」ということを表わしています。教会の会議とは、誰か声の大きい人や頭のいい人、話が上手い人、権力のある人が主導するのではなく、聖霊による一致の内に進行するものなのです。
といっても、この世の会議である以上、その進行役や決議を発布する代表者が必要です。そこで登場するのが、使徒の頭であり、初代教皇である聖ペトロでした。カトリック教会の会議は、聖ペトロの使徒座との一致の内にも考えられなければなりません。これが「イェルサレム会議」から学べる二つ目の点です。
多様性のある一致 それがカトリック

カルタゴの聖チプリアヌス
さて、公会議の原形、聖書的根拠ともいえる「イェルサレム会議」の後もキリスト教会は発展と拡大を続け、ローマ帝国中に広がっていきました。各地に設立された教会は、その地の文化や風習の影響を受け、独自の発達を遂げていきます。言葉も肌の色も風俗も異なる地に播かれた福音の種は、その土壌にあわせて育っていったのです。
ですが、キリストにおいて一致していながらも様式においては多様性のある教会は、次第に、同じ点ではなく違う点にこだわり対立してしまいます。中には自分勝手な解釈を振り回す人も出てきて、教会はまたもや分裂の危機に立たされます。
そんな中、カルタゴの聖チプリアヌスという司教は『カトリック教会の一致について』という本を3世紀半ばに書いて、聖霊とペトロの使徒座との一致に支えられた教会のカトリック性(普遍性)について述べました。太陽から多くの光線が出たり、泉から川が流れ出たり、一つの木から多くの枝がわかれたりするように、キリストの教えから種々の共同体が誕生したと説く聖チプリアヌスは、教会のカトリック性を多様性による一致に見出しました。そして多様でありながら一致している教会から外れている者、つまり、自分勝手な意見を述べてイエスの教えを捻じ曲げている人を断罪し、「教会の外に救いなし!」という有名な言葉を述べました。しばしば、教会の画一性や排他性を象徴すると誤解されているこの言葉は、むしろ、教会の多様性を擁護する文脈の中で登場したのです。
カルタゴの聖チプリアヌスは、多様化する教会を反動的に否定するのでも、手放し的に放任するのでもなく、聖霊とペトロ使徒座との一致の内に肯定しました。ですが、これで教会の分裂の危機が去ったわけではありませんでした。むしろ、教会はこれからの数世紀、神学的な分裂を避けるために戦う必要がありました。そして、その戦いの場となるのは公会議でした……。
石川雄一 (教会史家)

