森裕行(縄文小説家)
左前に着物を着てはダメとか、北枕はいけない、縦結びは良くない。……こうしたことは幼いころから習うが、高齢者になり親しい人の死を経験して、あらためてその意味をしみじみと胸に刻むことがある。左や右、上や下、そして方位に関わる慣習は考えてみれば実に不思議である。しかし、この「あの世」に関わることは、仏教等の教義に正式にあるわけでもなく何だろうと不思議なのだが、縄文文化に詳しい故・梅原猛氏の『日本の「あの世」観』(梅原猛著 中央公論社 1989)を読んで、後述するが新たな視点が開かれた。梅原猛氏は哲学者でありながら、日本の精神文化を研究し、その原型といえるような縄文文化についても造詣が深く、縄文の精神文化の本質について語ることができる数少ない識者なのであろう。
さて、私はこの半年、縄文時代の環状墓壙などを日の出入り線などで研究してきた。その中で、縄文時代の人の方位観を探ってきた。夏至の太陽を調べ、あるいは様々な遺構図に三角定規を当てて、縄文人が冬至や夏至の日の出入り線を確かめているかを調べてきたが、縄文人の方位観は明らかに現代人と異なるようなのである。
その最たるものは、例えば夏至のころに日の入の方角を調べ、そして正反対の日の光が届く方向を見ると、冬至の日の出の方角。ずっと縄文人の方角に慣れ親しんでいると、夏なのに冬、北西の朝なのに南東の夕、あべこべにはっとする。幼いころに鏡の中の自分が左右反対で鏡の中の気味の悪い世界に気が付いたあの感覚だ。
また、故・大和岩雄氏は名著『神々の考古学』(大和書房 1998)で古代の方位観について深く考察されているが、縄文を含む古代では東は太陽が昇る方角、つまり冬至から夏至までの幅を持つ方向をヒガシ、反対の西も幅を持つ方向でニシとよんだとしている。つまり、地図や磁石でなじみの東西南北ではないのである。そんなことから、縄文人の「あの世」の基本イメージはこんな風ではなかったか。
だが、私の拙いイメージはここまでにして、梅原猛氏がレヴィ=ストロース来日の際のシンポジウムでの講演をもとにした、『日本の「あの世」観』(梅原猛著)の重要個所を要約してみよう。
(1) 宗教は教義と儀礼の側面を持つ。
宗教というと教義に眼を向ける人が大半だが、日本の祭りや行事なども宗教の大切な側面と梅原氏は考える。仏教の明確な教義や葬式などの儀礼、さらに神社の儀礼である祭りや行事に眼を向ける。私はカトリックの信徒なので一言述べると、聖書やその研究は教義にあたるが、ミサをはじめ行事に関わることも大切な側面だと感じている。教義は理性に訴えるが儀礼はそれだけに留まらず全人格的だ。そして、縄文の「あの世」観だけではないが、宗教を考える時に二つの側面を見落としてはいけないのだと思う。
(2)縄文時代の「あの世」観
梅原猛氏は人間だけでなく動植物などの衆生も魂を持つ存在で、この世とあの世を行ったり来たりするとしている。また、あの世はこの世とあべこべとする。このあべこべは私が感じた夏と冬のあべこべもあるが、壊れたものが完全になったり、北米先住民のポトラッチ祭儀でみるような、富を捨てることに価値をもたらすような価値観のあべこべもあるかもしれない。小さきものを大切にする、死者の家の活動をしたマザー・テレサにも通じる反転の思想が縄文時代にもあった可能性がある。
(3)魂のありかた
梅原氏は仏性として最澄の「草木国土悉皆成仏」の思想が、縄文時代の「あの世」観と響きあうとしている。さらに梅原氏は日本の仏教史や神道史との関係も論じているが、ここでは立ち入らないことにする。
こうした「あの世」の思想は梅原猛氏は縄文時代だけでなく旧石器時代にまで遡る可能性も言及しており、そうであれば「あの世」観は日本だけでなく世界に通じる普遍性をもつかもしれない。
さて、身近な縄文遺跡から縄文人の「あの世」観を確認してみよう。まずは、北海道の洞爺湖町の入江・高砂貝塚。
5年前にこの地を訪れたのは、若い縄文人のことがあったからだ。入江貝塚で見つかった9号人骨は通常の人骨と異なり、筋萎縮症やポリオのような病気のために幼少期から寝たきりとなり、10年以上の長期にわたり生きながらえた若者の環境を体感したかったからだ。訪れた日は入江貝塚公園には近くの園児が遊んでいて微笑ましく、また遠い昔の障がいを負った若者と困難な介護に挑んだ人々のことに想いを馳せることができた。
こうした縄文時代の障がい者のケアはこの例だけでなく他の縄文遺跡で見つかっている、また世界でも新石器、旧石器時代の事例も語られていて、私にはあべこべの「あの世」観・価値観が世界の基層文化にあった可能性もあるのではと思う。
さて、入江貝塚のとなりに高砂貝塚があり、縄文晩期中葉の人骨の中にひときわ目立った人骨があるのだ。墓壙には大量のベンガラ(赤色)がまかれ、ヒスイ勾玉も副葬されていた。その被葬者は妊婦であり幼児の骨も発見されている。妊婦の死、当時の悲しみが伝わってくるようだ。なお、冬至の日の出入り線を重要な指標として使うかは、前回の記事などをご参照ください。
これを発掘時の他の遺骨と重ねてみたのがこの図である。この世とあの世の境目としての日の出入りの光。さらに死と再生の冬至と重ねた冬至の日の出入線(天文学では山なみに出入りするのではなく、水平線・地平線の出入が基準)と墓壙を重ねてみると妊婦の高砂4号(G4)は他の遺骨と異なり、冬至の日の入の方向に向いているようである。この方向はあべこべのあの世では夏至の朝になる。妊婦とお腹の子供のあの世での幸せを祈り、特別な意味があるのだろう。尚、頭位に関しては縄文時代の環状集落が終わってからの後期の資料が参考になるが、次の場合も西向きが優勢だ。
次に縄文の土偶について考えてみたい。土偶は愛くるしい表情や怪奇な表情で、小林達雄氏は「第2の道具」として石棒と一緒に儀礼に関わる大切な道具として位置付けたが、梅原猛氏は次のように考えている。
私の知る限り後で述べるが、あの世への焼失住居での送り儀礼に土偶が登場しないことを考えると、興味深い見解であると思う。そこでこの5番目のていねいに埋葬される例を考えてみたい。日本の国宝でもある茅野市の「縄文のビーナス」例だ。

冬至の日の出入り線と重ねてみると、高砂貝塚での一般的な埋葬の日の出線に乗っているのが分かる。通常は儀礼とともに壊され、あの世で再生する土偶であるが、恐らく土偶の隣に埋葬された儀礼の祭祀者が、あの世で儀礼できるように配慮したのではなかろうか。
次に、土偶とともに第二の道具の代表格の石棒について考えてみる。石棒は男性の象徴とされる儀礼の道具であるが、以前にも他の事例で取り上げた下布田遺跡の石棒祭儀遺跡を挙げてみる。
縄文晩期に中期の伝世品も含めての沢山の石棒を使って儀礼が行われたようであるが、この石棒は日の出線に直交し、日の入線の流れに近い。この傾向は田端積石遺構や次の緑川東遺跡の4本の石棒でも見られる。

これに対し、焼失住居で家送り儀礼がされたと思われる忠生遺跡を次に考察する。
被熱で破砕されたと思われる石棒に重なり冬至の日の出線が走り、「縄文のビーナス」と同じように祭儀の司式者が石棒を携えてあの世に送られ、あの世で石棒儀礼ができるようにしようとしたのかもしれない。さらに、気になるのは冬至の日の出入り線に接する3つの土器と石皿である。これについては、「象徴的二元論から読み解く縄文人の心性」(2019)などの先行研究をされている中村耕作氏が取り上げた諏訪市穴場遺跡がありこちらも調べてみた。
この遺跡は、南西に開けた場所であり、冬至の祭りが中心に行われた場所柄ではないかと推察される。そして、遺構図に冬至の出入り線を重ねると、向郷遺跡の環状墓壙で現れた菱重ね図像が現れる。なお石棒は日の入線と重なる。これは忠生遺跡と異なる点だ。この世での祭儀だったのだろうか。
冬至の日の出入り線に接するのは、石皿―石棒―釣手土器(蛇体装飾、女神頭部)―凹石―石椀―突起付き土器―突起無し土器と中村耕作氏が指摘した二項対立の象徴だけでなく、礫(自然石)がいくつもあるのが気にかかる。自然石は筆者が沖縄の久高島で強烈な印象を受けた石の素朴な信仰につながるかもしれない。後述する縄文の「あの世」のムラで多用される石に通じる。こうしたモノは、日の出入り線とともに「あの世」にどのようなメッセージ(物語)を送ろうとしたのだろうか。
それでは、「あの世」のムラの話に移ろう。この遺跡は夕焼け小焼けの里に近い東京都八王子市恩方市民センター近辺の小田野遺跡である。安孫子昭二氏が「現生の集落」と「あの世」の集落を仲介する施設と教えてくれた遺跡で、異彩を誇る膨大な石の遺構や不思議な土壙群が満載である。縄文中期後葉から後期前半という多摩では稀有の時期の遺跡であり、何故この地にそのような遺跡があったのか謎であったが、カシミール3Dで冬至のシミュレーションをしていた時に偶然、関東山地の山々の背後に富士山があるのに気が付いた。

縄文中期後葉あたりから富士山の噴火活動が活発化する。そして縄文晩期後半には古富士が崩落し今の姿になったという話まである。そんな中、近くの田端遺跡や山梨県の牛石遺跡の環状列石では富士山がはっきり見えない場所(噴煙は見える)で祭儀を行っていたようだ。この小田野遺跡も同様に富士山との関係で作られた遺跡ではあるまいか。
では小田野遺跡を覗いてみよう。小田野遺跡は山間の遺跡であるが景観が優れ、冬至や春分などの太陽が山なみに出入する場所は特徴的だ。
そして、もっとも異彩を放つ遺跡中央部とこの冬至の光を重ねると次のようになる。
次回に続く。

























