倉田夏樹(立教大学日本学研究所研究員、南山宗教文化研究所非常勤研究員、
同志社大学一神教学際研究センター・リサーチフェロー、
明治学院大学キリスト教研究所協力研究員)
――井上剣花坊の川柳
筆者は、終戦80年目の8月15日を郷里・長崎で過ごした。上半期の仕事を終え、充電のための帰省旅行である。8月の上旬は、大阪での国際会議(第19回東北アジア・キリスト者文学会議)に参加し、大阪万博にも足を運んだ。8月9日は、大阪で迎えた。
カトリックでは聖年である2025年の8月は、80年前のあの日と同じく、長崎はおおむね晴れた日であった。何事もない、ごく平和な天気だった。
- 晴天下の大浦天主堂(国宝)
- カトリック教会では今年は聖年(Jubilee Year)
そんな平和な長崎の日々だったが、テレビではかつての戦争の映像が流れ、新聞はこぞって平和特集の紙面。日本全国がなんだかしんみりする日々だ。立ち止まって考えてみたい。「原爆とは何だったか」。そして「日本人にとってアメリカとは何か」。
広島市にある平和記念公園の石碑には、「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませぬから」とある。有識者によってよく批判されるように、この文章には主語がない。「過ち」を犯したのは誰か。主語は、「人類史のタブー」である核兵器の実戦使用に手を染めたアメリカ人であろうが、戦争をおこしてしまった日本人ともとれる。長崎で働いた島根出身の永井隆博士は、「(原爆は)神の摂理によってこの浦上にもたらされた」と言った。ここでも、「主語/主体」に操作がなされている。これが日本人得意の忖度か、あるいは何らかのバイアスがかかっているのか、私は知らない。
ありとあらゆる手法をもって、アメリカ人によってだけでなく、日本人によっても歴史修正主義は実行されるが、史実は、「アメリカ人が」「日本(広島と長崎)に」「原爆を投下した」ということである。「他に仕方がなかった」も「そこまで追い詰められていた」も通用しない。「人類史のタブー」を行った。この史実は決して誤魔化してはならない。
日本の戦後教育において、ゆるやかな思想教育はあるように思う。人類全体に対する普遍的・平等的な愛を教え、多民族共生主義を教える。いささかリベラルである。少なくとも、「特定の国や民族を憎むような教育」は行っていない。それが日本人による主体的な選択であったか、自国への憎しみを巧みに回避しようとしたGHQの教育政策であったかは定かでない。
被爆地であってもそれは同じで、長崎では、「アメリカを憎む」ような平和教育は特段なされていないように思われる。「戦争の愚かさ」を伝え、「二度と繰り返さない」ことを強調するが、「主体の責任や賠償」についてはまったく追及されない。敗戦国であるからだろうか。広島の方は、もっと激しくものを言う印象がある。長崎はいつもおとなしい。「怒りの広島、祈りの長崎」と揶揄されることもある。
長崎の小学校では、毎年8月9日が登校日である。暑い体育館に全校児童が集められ、11時2分になると古ぼけたスピーカーから空襲警報のようなサイレンがなり、被爆者のおじいちゃんやおばあちゃんの話を聞く。中学校、高等学校になると、こうした全校を巻き込んでの平和教育はなくなる(これは、なぜだろうか)。
私は大学院生時代、私と同郷・長崎の人で、ジャーナリストの立花隆先生のゼミにいた。先生は、「私は毀誉褒貶あるジャーナリストだが、被爆地出身者として、ジャーナリストとしての最後の仕事を、戦争の記憶を記録することに捧げたい」と言っていた。戦後生まれのゼミ生が多かったが、「戦争の直接体験者でなくても、見聞きしたり、戦争遺跡を訪ねたり、それぞれに戦争体験があるはずだから、意見を出し合いましょう」ということで、いろいろ話し合った。また、ゼミ生で力を合わせ、北京からの戦争引揚者である、立花先生のお父様が書いた小説を再構成し、立花先生のお母様にもインタビューして、一冊の本を創ったりした。被爆地出身者らしい立花先生の素晴らしい仕事だ。その後、立花先生は亡くなったが、この本は残った。
戦争の記憶を風化させることなく次世代に継承し、「長崎を最後の被爆地に」(We do hope Nagasaki should be the last victim city./長崎の祈りのようなスローガン)することが私たちの悲願だ。
本稿の冒頭で、井上剣花坊の川柳を献辞したが、これは文脈がまったく異なり、伊豆・下田の「唐人お吉」について詠んだ句である。「唐人お吉」こと斎藤きちは、1841年(天保12年)、下田に生まれた日本人女性で、幕末の悲劇のヒロインと言われる。
この頃の下田には、アメリカの黒船が停泊しており、アメリカ人のマシュー・ペリー、タウンゼント・ハリス、オランダ人の秘書兼通訳のヘンリー・ヒュースケンが玉泉寺に駐留していた。ハリスは、長期間の船旅と日本側との交渉の疲れから体調を崩し、ヒュースケンは下田奉行所に日本人の看護婦をハリスのもとに差し向けるよう要請した。下田奉行所は、「看護婦」の概念が理解できず、「妾」を要求していると思いこみ、協議ののち、下田で一番の芸妓だった17歳のお吉がハリスのもとに派遣された。お吉は覚悟を決めてハリスのもとへ行き、日本では飲む習慣のない牛乳をハリスのために用意するなどし、その甲斐もあってかハリスは全快し、お吉はその任を解かれる。
しかし、下田の町に戻ったお吉を待っていたのは、周囲からの偏見だった。「異国人と関わった女」という強い偏見を受け、船頭たちの洗濯などの仕事も受けられなくなってしまい、下田の町を去ることになる。以後、横浜、三島など、町や職を転々とし、その後下田に戻り、小料理屋「安直楼」を経営するも、偏見や自らの酒浸りもあり、破滅的な人生を送り、病気も患ったお吉は、下田を流れる稲生沢川の上流に身を投げる。その亡骸は引き取り手がなかったが、下田の宝福寺の僧侶によって弔われ、お吉の墓は今も宝福寺にある。
この「唐人お吉」の悲劇は、小説や戯曲、舞台や映画にもなり、多くの人々の心に訴えかけた。新渡戸稲造もまた、「からくさの 浮き名のもとに 枯れ果てし 君が心は やまとなでしこ」という歌を残している。
私にとっては、新渡戸博士より、井上剣花坊の前掲の句の方が心に残った。何とも言えない余白と余韻がある。
この句を目にした時、私には長崎の被爆者の女性たちのことが想起された。そして、私の祖母のことを思い浮かべた。近親者から戦争についての話を聞くことはそう多くないが、断片的に聞いてきた被爆者たちの人生が無言のうちに語りかけているようだった。
「土に成る」。被爆80年、長崎の被爆者の平均年齢は86歳を超えた。被爆者たちの証言は急激に失われつつある。若い人の口々から、しばしば日本核武装論を聞くことがある昨今である(彼らは、戦争被害の大きかった広島、長崎、そして沖縄に行って、戦争被害者からの証言を聞いたことがあっただろうか)。「平和は理性と霊性の仕事であるから、目に見えぬ、はっきりとつかめない、如何にもじみである」(鈴木大拙『宗教とは何ぞや』)から、私のぼんやりとした平和論では、勇ましく華やかな核武装論には押されがちであるが、少なくとも被爆当事者から直接、平和への想いを託されたわけであるから、理性と霊性ある言葉を紡ぎ、忍耐強く説得したいものだ。平和に対する、核兵器に対する、唯一の戦争被爆国の責任は重い。
誰もはっきりと語りはしなかったが、どうやっても史実の端々から伝わる「アメリカの非道」について、意識的にも、無意識的にも違和感を抱き、不信感を持ってきた幼少時代からの私は、「アメリカ的なもの」を意識的に、無意識的に避けてきた。日本最初の姉妹都市が、「長崎市と米国・セントポール市(ミネソタ州)」であったことを知った時には欺瞞とごまかしを感じたし、外国文化であれば、アメリカよりもヨーロッパにシンパシーを感じた(たとえ、同じく文化征服者であっても)。カトリックに関しては、長崎はフランスの影響が多く残るので、さほどの抵抗を感じなかった。外海地方に宣教したド・ロ神父といい、「信徒発見」のプティジャン神父といい、とてもいいイメージだった。浦上天主堂も、戦後、アメリカの教区からの資金拠出の申し出により再建されたアメリカ建築(証拠隠滅の所業か)よりも、原爆によって破壊されたオリジナルのフランス建築は壮麗で美しい。
英語を習う学年になると、「英語」であって「米語」でないことに安堵を覚えたし、予備校での英語科の恩師は同時に大学英文科の老名誉教授であり、米文学よりも英文学を好んだ。大学で英語科の教員免許をとるときも、米文学ではなく、英文学の単位ばかりをとった。音楽にしても、ある時からロックもジャズもアメリカ的であるがゆえに抵抗を感じるようになり、それ以外の国の洋楽を聴くようになった。90年代以降は、さまざまな文化の中心がアメリカに移りつつあることを歯がゆく思った。強者の文化、抑圧者・収奪者の文化には同調することなく背を向け、アメリカに対しては、激しい憎悪というよりも、静かな回避という態度をとってきた。
2008年には、仕事の一環(雑誌編集者)で、自ら企画してアメリカの大統領選の取材でアメリカ西海岸に渡った。初めての「アメリカ」。行ったのは、主にロサンゼルス、サンフランシスコ、シアトルであった。当時、民主党のバラク・オバマ候補と共和党のジョン・マケイン候補が大統領選を繰り広げていた。初の黒人大統領が誕生するアメリカを見てみたかった。
カリフォルニア州南部にあるプロテスタント福音派のメガチャーチであるサドルバック教会には3万人が集まり、スター牧師リック・ウォレンの司会の下、オバマとマケインが大統領選での初顔合わせをしていた。もっとも、アメリカ国民は、思うほど単純ではなく、国民の皆が皆、テレビから映し出されていたような「大統領選の熱狂」に取り込まれているわけではなかった。むしろ、冷めに冷めている国民もいた。ジョージア(グルジア)からの移民のタクシーの運転手は、「政治家はみな嘘つき」と冷静だったし、台湾系の移住者は、それよりも目の前の生活で手一杯のようだった。
私としては、旅行者として、それなりの人種差別も受けたが、親切にしてくれる黒人もいて、そう悪くないアメリカ滞在は無事終わった。自由の国である印象はやはりあった。
私にとってのアメリカについての「救いの言葉」は、アメリカにおいて、ではなく、日本において、私にもたらされた。発語者は、アメリカではなくメキシコを研究対象にしている日本人の歴史学者・清水透先生だった。彼は、アメリカによって収奪されるメキシコをフィールドにしていたが、そんな先生の口から、講義の際、不意に「アメリカ人にもいい奴はいますよ」という言葉が出た。至極当たり前の言葉ながら、何とも不思議な含蓄がある言葉で、私の心に響いて残った。先生の人柄もあったのだろう、と今になっては思われる。「にも」というあてこすりはあるわけだが。知識人はやはり、時に名言を残すものだなと思った。「アメリカ人にもいい奴はいる」。
日本人の清水先生の一言によって、アメリカに対する積年のアンビバレントな感情は一定程度払拭された。実に、救いを感じる言葉だった。私の中にある狭量と偏見とを恥じたが、それも仕方ないことのように思われた。
私にとって、一定の救いはもたらされたが、私自身ゆるしは発効していない。謝罪とゆるしとは本来セットだから、前提がなされていないので当然だ。
しかしながら、世の中には謝罪を経ないゆるしもまた存在するようだ。アフリカ人の多くは、長年の植民地主義をもたらしたヨーロッパをゆるしているようだし(ヨーロッパ人は謝罪をしない)、戦時中、日本がさんざん危害を与えてきたアジアの国フィリピン人の多くは、「あなたたちはもっとゆるすべきだ」と言うようだ。フィリピンの人々が、すでに様々なことをゆるしてきたことの証左だ。私たちとすれば「ゆるしすぎだろ」と思うところもあるが、そこには、キリスト者としてのあり方が問われているのかもしれない。そもそも、謝罪というのは、現実的にはなかなかあるものではない。
長崎人にとって原爆は歴史の問題ではなく、血の問題だ。不審な病状が出た時、長崎人は世代をまたがって起こる原爆症のことが真っ先に頭をよぎるという。亡くなったある神父は、「すでに行ってしまったことに関しては仕方ない」と言った。「歴史の針は戻せない」。十分な謝罪が俟たれるが、それは贅沢に過ぎるのかもしれない。「謝罪なきゆるしの可能性」を探求するのがキリスト者の人生なのかもしれない。

『氷川清話』が書かれた勝海舟邸跡(東京・赤坂)。現在は「バー」である。快活な勝は本望だろう。かつては長崎海軍伝習所で学び、咸臨丸で太平洋を渡りアメリカの土を踏んだ。周りにいた侍たちは次々に散っていった。思えば、実にアメリカと格闘した人物でもあった。
それにしても、現下のアメリカを見ていると、かつて昭和の時代に武士道と騎士道の総力戦をもって矛を交えた好敵手の姿は認められず、ただただ、昭和も、「アメリカ」も、はるか遠くに感じられる。国家と民心は乖離し、今にも分裂しそうだ。現下の日本と同様、歴史修正主義が花を咲かせている。
今後も、まずもってアメリカからの謝罪はないだろう。しかし、「原爆投下は正当化できる」とするアメリカ人の比率は、65歳以上で48%、18~29歳で27%と、年齢が若くなるほど下がっているようだ(米調査機関ピュー・リサーチ・センター)。これもまた史実、温かくこの朗報を迎えたい。アメリカはそれでも日本の同盟国、これからも当面は同盟国であるだろう。十分な謝罪が俟たれるが、「アメリカ人にもいい奴はいる」ことを信じ、「謝罪なきゆるしの可能性」を私もまた探求したい。






