聞き手:鵜飼清(評論家)
うかい:誠一君は船の職工になるわけですが、勲さんの霊は彼の残した手記を見つけ出します。そこで音楽が流れますね。それがNHKの『こころの時代』にかかっているテーマ曲で、ぼくは大好きな番組と曲だったので驚いたのですが、これはどうして使われたのですか。
谷口:ぼくも大好きな番組で、NHKは『こころの時代』と『新日本風土記』をよく観るんです。
この映画では、勲が戦場で非常に悲惨な苦労をして、最後は船員に殺されてしまうというということがあるので、どうしても中間部分には少しある種の心の癒しということもあるし、幸せな部分を入れてあげたいなと思った時に、『こころの時代』がいいかなと思っていました。テーマ曲を作曲・演奏しているウォン・ウィンツァンさんのファンでもあったんです。
この曲がかかる場面は、唯一、息子を探しながら心を落ち着かせるところなんですと説明して、許可をいただきました。
うかい:映画の主題歌は『長雨きりゃがり』ですね。
谷口:この曲は奄美の歌です。元々あった歌なんですが、朝崎郁恵さんという奄美の歌い手さんがいまして、この曲がいいのではないかと思ったんです。長い雨が過ぎ去って晴れていくという奄美の景色が合うのではないかということで使わせてもらいました。朝崎さんは今年90歳なんです。体調がすごく悪くなって、私はちょっと自信がないと言われたのですが、どうしても朝崎さんに歌ってほしかったんです。亡くなったかたたちを癒せるのは彼女の歌しかないと思って、なんとか歌っていただきました。
朝崎さんは自分の歌をもう少し後押ししてほしいということで、ウォンさんにピアノを弾いてもらえないかと言うんです。ウォンさんとは10年前に一緒にCDを出したこともあるっておっしゃるんです。偶然にもお二人が知り合いだったんです。それでウォンさんにお話したら、朝崎さんのためならピアノを弾きましょうと言ってくれました。朝崎さんの歌は先に収録していたので、それに合わせてウォンさんがピアノを弾いてくれたんです。そういうことで、二人の再会は感動的なものになりました。
うかい:なにかどこかで霊が結び付けてくれているような感じがしますね。
谷口:朝崎さんも船が沈んだところ見ていて、ずっと慰霊をしているんです。小さい時はソテツしか食べるものがなかったと言ってました。沖縄戦の時に、お父さんが盲目のかたなので、お父さんを連れて山に逃げたという経験も語ってくれました。
奄美ではドレミファソラシドの音階に乗らない歌を口伝で聴いて歌うしかないので、朝崎さんに歌ってもらえたのはうれしかったです。
うかい:奄美や沖縄では毎日新しい島唄が生まれていると言いますね。三線の演奏に合わせた歌声の響きは、なんとも心に沁みわたります。
谷口:三線というのが、琉球に支配されてから宮古や奄美に入ってくるんですけど、その前はアカペラなんです。それは波の音を聞きながら作ってきた歌のようですが、朝崎さんはそれを伝承しているかたで、やはり聴く者を惹き付けて離さない素晴らしいものがあります。
うかい:この映画では戦後の日本がどのような歩みをしてきたかを意識させますね。誠一君はお父さんが戦死してから大人になって働くわけです。そうした戦後日本を観る角度を持った映画なのが魅力的だと思います。
谷口:この映画には地主さんが出てきますが、農地解放から逃げるために農地を植林するんです。林業が発展したのはそうした理由もありまして、植林で村が豊かになる。1970年あたりから列島改造ではないけれども、交通など生活が便利になってくると村から町へ出ていくわけです。そうすると過疎化が生れてくる。村自体が衰退するし、林業も安い木材が海外から入ってくる。それでさらに村の過疎化が加速する。
それと教育の問題も大きかったと思います。子どもたちに良い教育をさせたいということがあったんだけど、かつて村の誇りだと言われて出征して行った
人たちが帰って来なかったということですよね。ここら辺も描きたかったんですけど。
それで、今回東京の上映が終わったら各地を回ってみようかなと思っています。特に農家ですけど、どうなっているのかなと思っていて。
うかい:いまの米問題も突き詰めていけば、戦後からの農政がいかなるものであったのかというところにいかざるを得ないわけです。戦後の経済発展は産業化という工業化へ突き進んでいった発展だった。経済成長の陰には原子力発電ということがあるわけです。
谷口:山代巴さんの『荷車の歌』という映画があるんです。1970年代あたりの日本から観て、いかに今後の日本はダメになっていくかを見せてくれます。自然の景観がダムで失われていく、山が切り崩されていく、これからの人たちはダムや工場の景色のなかで生きていくしかなくなるということなんです。
うかい:山代巴さんは広島の人ですね。『荷車の歌』は農民文学の金字塔と言われています。山代さんは、農村の女性たちの意識を変えていくためにあちこちの村を訪ねて話をされたようです。戦後間もなくの頃はまだ農村では女性が運動をしたりすることがしにくい状況があったでしょう。そういうなかでの活動はすごいと思います。
この映画では勲さんの奥さんが亡くなる時に、誠一君がお母さんの枕元で最期を看取るシーンがあります。戦後を女手ひとつで息子を育ててきた女性の人生を想いながら観させてもらいました。
戦地から復員してきた男たちの戦後を生きたドラマもありますが、息子を戦争で亡くした母親や戦争未亡人が戦後をどのように生きたかのドラマが気になります。戦後の日本の復興の力は、女性たちの力なくしてはあり得ないからです。そういう視線を忘れてはならないと思いますが、谷口さんは意識されましたか。
谷口:戦前は、男尊女卑の社会ですから女性は男性の常に下に置かれていましたよね。戦後もその価値観は続いていたわけですから、旦那さんを失くしたということは、どちらかというと差別の対象になったでしょう。自分の居場所もなくなったでしょうし。日本政府はそうした家族構成の具体的な在り方を調べてませんから、保証も何もなくて、ただ泣き寝入りするしかないわけです。遺族会から出している資料を読むしかないわけですが、そこには夫を亡くした衝撃は一言では言えないと記されています。路頭に迷うばかりでしょうしね。そうした人たちの心のケアもしてないわけです。この映画を観て、そういうことに考えを及ぼしてくれればいいかなと思います。
うかい:ぼくが大学を卒業してから先輩の編集者に連れて行ってもらった飲み屋には、戦争未亡人の店がありました。1970年代にはまだ繁華街の裏道にはそうした小さなお店が並んでいました。
農家の場合は、長男が戦死して次男が復員してくると、長男の嫁が復員してきた次男と再婚するということがあります。農家では人手も要るし、後継ぎも要るわけですから。
やはり現実は厳しいけれども、そこでは人間は生きていくんだという逞しさというか、生命力を感じさせられます。
勲さんの奥さんに再婚させる発想はあったんですか。
谷口:ぼくのように戦争に行ったかたたちの孫のような世代は、まったく戦場のことを知らないわけですから、戦争の苦しみを体感しない人間がどこまで言っていいのかなということがありました。
たとえば天皇に責任があるのだというようなことをぼくが言えるのかどうか。あの戦争を体験した人が言う事の方が説得力があるなというね。そう思ったときに戦争未亡人のところを、再婚して幸せになりましたと、ぼくが描けるかなと思ったら描けなかったですね。じゃあぼくが描ける方法はなんだろうかと考えたときに、戦場で死ぬ人の描き方もそうですし、戦争未亡人もそうですが、なんか魂の慰霊と言いますか、そこぐらいしかぼくにはできないんじゃないかと思ったんです。
あの戦争の当時者であれば、もっと描き方が違っているかもしれません。実は、人肉を食べてるシーンも撮っているんです。がばーっと食べて、極限の人間の状態ってこんなふうだとか、昔の戦争映画を観てますから。でも同じことを自分がやってもうどうかなと、やはりそれはできないなと思いまして。
うかい:戦場の撮影で、苦心されたことはどのようなことですか。主人公の谷英明さんは、飢えて痩せた姿にするために減量をしてたいへんだったようですが。
谷口:自分としては山だったりジャングルだったりに連れて行きたいと思うんですけど、自分は行けるんだけど俳優さんは芝居もしなければいけないし、ほかの部分でもしなければならないことがあったりするので、そこのギャップを埋めるのがたいへんでした。私は演じられるんじゃないかと思うんだけど、俳優さんにとってはなかなか難しい部分もありました。演じるときに、棘だらけのところで演じろと言っても難しいことがあるので。そこが私の未熟なところがあって、演じてくれているのを観たまま撮れると思っていたりして。そこは俳優さんは俳優さんのプランがあるし、準備もあるわけでね。
うかい:この映画は谷口さんの初メガホンなんですね。
谷口:そうなんです。私はただ映画を観てただけの人間でしたから。
うかい:ぼくが感心したのは、軍服の着方にしてもちゃんとされていました。たとえばゲートルもきちんと巻けていたし。服が汚れて傷んでいるところもリアルに出ていました。
谷口:そうですか、一応どうなるかは調べていたんです。飢餓になるとどんな具合になるかとか。飢餓状態になると栄養失調になるので、普通なら髪の毛は伸びるというイメージがありますけど、資料の文献によると抜け落ちるんです。それで弱々しい髪になるらしいんです。その弱々しい髪までは再現できてないんです。
当時の兵隊の様子を知ってる人がもういないんで、たまたま目羅さんというそういうことを研究されているかたがいて、そこに訓練所があって、その訓練所に入って勉強したという事はありました。いまの日本人と当時の日本人では骨格が変わっているんです。
うかい:それは仕方がないでしょう。ぼくの父親は甲種合格で近衛兵になって、二重橋の衛兵として立っていました。背丈は150㎝ぐらいでした。当時の日本兵はほとんど150㎝〜160㎝だったと思います。いまの人はスラっとして170㎝以上あるのがあたりまえですからね。
谷口:当時の軍服が入らなくて。主人公の谷英明さんは大号という一番大きい服も入らなかったです。当時も大きい人がいたようですが、そういう大きい人は砲兵とかに行かされるんです。歩兵だとすぐ狙われちゃうんで。なんでか、この映画では大きい人が多かったんですよ。
苦労したのは骨格が変わったというのと、再現するのにはたいへんだったということかな。そもそも女性のメイクさんはみな逃げて行くんです。撮影現場にはトイレもないし、虫も一杯いるから。最終的には全員男になってしまいました。
うかい:この映画を作られ、ご自身が1976年に生まれてから育った戦後日本のありかたを振り返ってみて、いまどのような感想をお持ちでしょうか。
谷口:あの戦争であれだけ亡くなったんで、われわれは社会的に豊かに生きているという論法でどうにか胡麻化してきたことがあったと思うんです。小さい時もそのように教えてもらいましたが、それが総崩れになったと思うんです。経済的に恵まれてきたときに、改めて亡くなった人たちの問題が浮上してくるわけです。ならばなんのために亡くなったのかって。その時に、あの死を無駄にしないためにはあの戦争のことを継承するということも大事なのかと思うのですが、あの戦争の計画とかから学び取らないと、無駄死になってしまうんじゃないかなっていうことをいま思っているんです。
それは戦争はどういうようになっていくのかを学ばなければなりませんし。たとえば心の問題ですかね。ああいう人たちがいたという自分の心の支えと言いますか、次へのステップにしたいというか。
いま思うのは、亡くなったかたがたのことを自分たちの未来のためにできないかなと思います。それをしてこなかったというのがあるのかなと思います。
たくさんのかたがいろいろなことを経験して亡くなってるわけなんで。一つでもわれわれが学ぶ事ができればいいのかなと思います。
うかい:戦争に行った人たちはほとんどが若い人たちでしたから。戦争の末期になって、戦況が怪しくなってきてからは30代の男性も招集されました。そして学徒出陣がはじまります。国の一番の財産とも言うべき人材たちが戦地で亡くなってしまうわけです。
戦後は復員してきた人たちで敗戦からの復興がはじまる。戦時中は徴兵されない年だった知識人たちが、戦後の民主主義の時代になってオピニオンとして活動をはじめます。理系の学者や学生はほとんど徴兵されずに戦時中を生き延びますが、文系の者たちは戦争の犠牲になって、将来への夢を捨てて亡くなっていったわけです。
そう考えると、戦争で亡くなった人たちが生きていたら、戦後の日本でどんなことをしただろうか、してくれただろうかを考えて、その叶えられなかった将来への夢を戦後生まれのわれわれが現実化しなければいけなかったんではないのかが問われていると思うわけです。それを考えさせてくれるのが、この映画の勲さんの霊なのかなと思うんです。しかし、74歳のぼくにとってはそう言いながら、自分はどういう戦後を生きてきたのかということに触れてくるわけで、重い感慨を抱きもします。
谷口:そういう意味では亡くなったかたがたは、ほんとにもし生きていたらやりたかったことはなんだろうかと思ったのは、やはり日本って、私の祖父の世代もそうですが、最終的になにを、まあ経済的豊かになりましたけど、最終的に何が成し遂げられなかったのかというと、民主主義なのではないかなと思います。まだ日本の国は民主主義ではないと思います。亡くなったかたがもし生きていたら、たぶん真の民主主義社会を築いていこうと努力されたんじゃないかなと思います。
うかい:映画の『人間の条件』の第五部で敗残兵となった丹下(内藤武敏)と梶(仲代達矢)が歩きながら語り合う場面があって、丹下の「くだらん自由を、高い金を出して買っているのかもしれんさ」というセリフが印象に残っているんです。梶は、いまの日本を観たらなんて思うだろうか。
『神の島』からもそうしたことを、霊たちから言われているのではないかを、考えさせてもらえるように感じました。
現代を生きる人は、彼らの苦しみとか悲しみを引き継ぐということは、彼らができなかったことを希望へと持っていくということをしないと、死んでいった彼らが生きてきませんから。
谷口:先ほどお話した山代巴さんが、山が崩されてゴルフ場になってしまうことを憂いておられました。ドイツ人の知人の書いた「死ぬことのないヒテールの詩」という詩があって、死なない男の子の話なんですが、彼が道を尋ねるんです。あなたはここに以前はなにがあったか知ってますかと。彼はそれが以前は海だったことを知ってるんです。その海を埋め立てて牧場を作った人たちは、そこがずっと牧場だと思っている。その牧場が潰されて、今度は町になって、町に住んでる人たちに聞くとそこはずっと町だったと思ってるというふうな詩を、山代さんが取り上げながら自分たちの町が元々山だったということを30年後、40年後の子孫はもう知らないんじゃないかっていう。そういうことが私の頭を過るんです。
うかい:戦没者の遺骨収集については今後どのような活動をされるのですか。
谷口:まだ100万柱が残っているということです。ミャンマーなんかでは政治情勢にも影響を受けるんです。それで遺骨収集ができなくなっていたり。日本人がやってきて切り拓いて穴を掘ったりするのはもう止めてくれという国も出てきています。昔からすると、国力も弱っているので、遺骨収集ができにくくはなっているのですが、幸いJYMAという学生主体の団体が活動していまして、今年は終戦80年ということで社会人枠を広げる、社会人が行くということも大事なんですけど、私も学生の若いときに経験したようなことを一人でもしてもらいたいと思っています。それでこの映画の興行収益の一部を、一人5万円あれば行けるので、寄付をいくらかして行ければなあと思っています。学校では学べないことなので、行けばほんとに貴重な経験になると思います。
私は武蔵野市の平和の委員をやっていまして、そこから教育委員会の方へと繋がっていけたらいいと思っています。
うかい:戦没者の遺骨収集をすることから、戦争というものは何だったのかを考えることができますし、戦争で亡くなった人たちの骨が戦地に残されたままになっているという事をどのように思うのか。ここでは「人間の尊厳」というものを考えるとても良い機会になると思います。
谷口:これからこの国で生きていく中で、それはとても大事なことだと思っています。いま計画しているのは、合同で慰霊する場所は千鳥ヶ淵がありますけど、慰霊する気持ちを巡礼マップとして作れないかと考えています。各地で戦争遺跡を見つけ出すのが困難になっていて、各地域にどういう場所があるのかというマップを作って、実際に私は回ってSNSでこういう場所があってというのを地図にしてみようかと思っています。
大切なのは、実際の場所に行って、その遺跡の前でリアルに人間が人間に向かって話をすることではないかと思います。バーチャルな映像を駆使して見せるという疑似体験もいいのですが、やはりリアルな実態に触れながら五感で実感することを第一としたいなと思います。
うかい:百聞は一見如かずと言いますが、たとえば軍服とかは映画で観てどういう服なのかが分かります。小説では分からない人が多くなっているでしょう。戦中派の人たちが生きていた頃は、文字で読んでも想像できたでしょうが、ぼくも戦後生まれですが、戦後生まれがほとんどになった現代では映像や絵で観てもらうことが必要だと思います。そうした意味も含めて、『神の島』という映画が訴えかける意味は、大いに意義あることだと思います。
今後の上映計画はどのようになっているんですか。
谷口:47都道府県をひとつずつ回って行こうと思っています。自転車に乗ってね。マップを作りながら行こうと思ってるんです。遺族会とかには連絡をしていますが、ルートとしては東日本から回ろうかなと考えています。それから東京に戻って来て、こんどは西日本へと。どこかで行き倒れるかもしれませんけど。
うかい:映画館上映はされないんですか。
谷口:映画館にアクセスできていない人が3100万人ぐらいいるそうです。映画館が町にないんだそうです。ミニシアターで上映したとしても、作品はたくさんミニシアターに集まってくるので、そうすると朝10時上映とかになってしまいます。だからホールでやった方が、昼の13時とかにもできるし、上映の後で一人ひとりのお話も聞けますから。
うかい:自主上映の映画として、谷口さんの目的が叶えられますように、AMORからもお祈りしています。
本日はありがとうございました。
神の島公式ホームページ:https://www.kaminoshima2025.com/
映画『神の島』を制作した谷口広樹さんにお話をお聞きしました①はこちらから
映画『神の島』を制作した谷口広樹さんにお話をお聞きしました②はこちらから
映画『神の島』を制作した谷口広樹さんにお話をお聞きしました③はこちらから