私が出会った枢機卿様たち


稲川保明(カトリック東京教区司祭)

昨年、2024年10月6日に菊地功大司教様が日本人として7人目となる枢機卿に任命されたというニュースが届き、日本のマスコミも「枢機卿」について、取り上げていました。7人の枢機卿様のうち、4人の枢機卿様が東京教区に関わる方々ですので、私にもいろいろな思い出があります。

 

土井辰雄枢機卿様

私の手元に昭和35年(1960年)3月5日付の新聞記事を切り取ったものがあります。それは、日本人最初の枢機卿・土井辰雄大司教様についての記事です。その冒頭に「これは私個人に与えられた名誉ではありません。法王さまが日本のカソリックの活動を評価して下さったものです。また長い歴史と伝統を持つ日本の国民性を評価して下さったしるしと考えます」(原文のまま)というおことばが紹介されていました。

静かな口調でこのように語った土井大司教様は当時67歳でした。土井枢機卿様は仙台の出身で熱心なカトリック信者の家庭に生まれ、旧制二高を卒業後、ローマのウルバノ大学に6年間留学し、司祭叙階を受けて帰国、各地の教会で働いたのち、1938年(昭和13年)に東京教区の大司教になりました。7人目となる菊地枢機卿様も同じく東北の出身であり66歳で枢機卿の任命を受けました。

枢機卿という称号はラテン語のCardo(カルド=蝶番=ちょうつがい)に由来しており、内側と外側を仕切る扉が蝶番によって両方の場所へつながっているように、教皇様の最側近の顧問役として、世界と教皇様の間をつなぐ役割があります。枢機卿の読み方には「すうききょう」と「すうきけい」という二通りの読み方がありましたが、土井枢機卿様の任命により、1960年(昭和35年)4月に日本カトリック司教団の全体会議により、「すうききょう」の読み方に統一され、マスコミもこれに従うこととなりました。

ちなみにローマ教皇の名称もそれまで、日本のマスコミでは「法王」「法皇」「教皇」とまちまちでしたが、日本の司教団の決定により、フランシスコ教皇様の来日の時から「教皇」に統一されました。

土井枢機卿様との思い出は小学5年生の時に堅信(堅振とも表記されていました)の秘跡をから受けたことです。土井枢機卿様の物静かなたたずまいが印象的でした。目の覚めるような朱色の枢機卿様の正装もよく覚えています。まだ小学生でしたから、直接お話ししたことなどはなく、1970年2月21日に帰天された時、暁星高校の三年生でした。カトリック研究会会長をしていた関係で、暁星学園の生徒代表としてご葬儀に参列したことが思い出となっています。

 

白柳誠一枢機卿様

それから30数年後、1994年、白柳誠一枢機卿様が任命された時、大司教館で事務局長をしていたので、身近にその知らせを受けた時の白柳枢機卿様のご様子を目の当たりにしました。当時、補佐司教をしておられた森司教様とともにお部屋に呼ばれ「とんでもないことになりました。教皇様から枢機卿になるように命じられてしまいました」と心の底から不安に満ちた思いを正直に打ち明けられたのです。

森司教様は沈黙されたままでしたので、仕方なく私が口を開きました。「大司教様ご自身にとっては重い使命を担われることになりましたが、日本の教会にとっては大きな喜びです。私たちも全力でお支え致します」と伝えると、にっこりと笑顔になり、白柳枢機卿様がいつもの明るさを取り戻しました。マスコミのインタビューの際には側に控えるように命じられました。枢機卿職とはこれほど重きもの、それゆえ私たちの支えなしには務まらぬもの……。

2000年に東京教区長を引退なさるまで、12年間、事務局長としてお側にて働かせて戴き、実にたくさんの思い出、お恵みを戴きました。森司教様のおかげもあり、白柳枢機卿様から「今私たちのチームワークは最高だね」と言って戴けたことが何よりの勲章となりました。

 

濱尾文郎枢機卿様

かつて東京の補佐司教を務められ、1980年から横浜教区長となられ、1998年10月、ヨハネ・パウロ2世教皇によりローマに招聘され、教皇庁移住・移動者司牧評議会の議長(閣僚に相当)に就任された濱尾文郎大司教が2003年、枢機卿に親任されました。

濱尾枢機卿様が東京教区の補佐司教様であった1970年から80年は私が神学生であった時期と重なります。18歳の時、神学校での入学試験を受けるために、大司教館に呼ばれ、濱尾補佐司教様(当時)の面接を受けました。「君はなぜ、司祭になりたいの?」と大きな目でじっと私をみつめて質問されました。私は「はい、それについては明確な答えがあります。福音宣教のためです。つまりイエス・キリストの魅力を多くの人々に伝えたいからです」と若さゆえのおそれしらずなことばであったにもかかわらず、濱尾司教様の心には伝わったようで、「そう、それだよ、福音宣教、福音宣教だよ」と二度も「福音宣教」ということばを繰り返されたのが印象的でした。

若者を愛し、若者から愛された濱尾枢機卿様は、まことのよき牧者でした。横浜教区長になられた時、神学生たちから大きな羊のぬいぐるみをプレゼントしました。意外にもかわいいぬいぐるみがお好きでとても気に入って下さったのです。

 

菊地功枢機卿様

そして、7人目の枢機卿となられた菊地枢機卿様とは、2017年12月初旬に新潟教区から東京教区へ引越しされた当日に、お会いすることが出来ました。最初の会話の中で「東京教区には司教総代理が不在なので、誰がよいでしょうか?」という質問をしました。私が挙げたある司祭の名前を聞いて「どなたもその司祭を推薦してくれますね。しかし、私の意中の一人は稲川神父さんですよ」とも言われて、「どうして、私が候補者なのですか?」と思ったという思い出があります。その後、皆さんから推薦されていたその司祭は健康の問題もあり、引き受けてもらえず、私が当面、司教総代理を引き受けることになり、菊地大司教様の時代が始まりました。

東京教区出身のそれまでの教区長とは異なり、いろいろご苦労も多かったことと思います。また前例で言えば、森司教様や幸田司教様が補佐司教に任命されたのは3年ほどの期間でしたので、私も司教総代理(通常は補佐司教が務める役割)の代行は3年ほどと考えていましたが、思いもよらず、2023年12月16日にアンドレア・レンボ司教様が登場するまで6年かかってしまいました。

ようやく補佐司教が誕生したところで、今度は2024年10月に菊地大司教様が枢機卿に任命されて、世界のため、日本の教会ため、東京の教会のためと再び、その使命と責任は大きなものとなりました。これからも東京教区の一司祭として、新枢機卿様のお働きをサポートしてゆければと思っています。

 


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