松橋輝子(音楽学)
日本で最も知られているグレゴリオ聖歌といえば、「天使ミサ」、ラテン語で「ミサ・ディ・アンジェリス」ではないだろうか? グレゴリオ聖歌のミサ曲は18曲あり、この曲は8番目に当たる。そのためKyriale 8(キリアーレ8)と記される。もともとは聖ミカエル、聖ガブリエル及び聖ラファエルの「大天使の祭日」や「守護の天使の記念日」のような天使の祝祭日に歌われるミサ曲であり、それゆえに「天使ミサ」という名称となっている。カトリック聖歌集503番として掲載されている。
そもそもグレゴリオ聖歌とはキリスト教の典礼で用いられる単旋律聖歌であり、その起源は古くは6世紀、7世紀にさかのぼる。ミサの中には、どのミサでも変わらない通常文と、ミサによって変わる固有文があり、ミサ曲はそのうち5つの通常文(「キリエ(いつくしみの賛歌)」、「グローリア(栄光の賛歌)」、「クレド(使徒信条)」、「サンクトゥス(感謝の賛歌)」、「アニュス・デイ(平和の賛歌)」を指している。
第2バチカン公会議(1962〜65年)以前、このミサ曲は日本の教会では大祝日によく歌われていた。その歴史は古くは1918年に札幌で出版された『公教會聖歌集』、1933年に初めての全国統一聖歌集として出版された『公教聖歌集』にも掲載されている。『公教會聖歌集』では、楽譜を読まない人々にも理解しやすいだろうということで用いられていた数字譜で記され、『公教聖歌集』では、現在の『カトリック聖歌集』で掲載されるのと同じ、五線譜を用いて記されている。いずれも、読みやすさ、歌いやすさを重視する記譜法である。
しかし、グレゴリオ聖歌といえば、本来はネウマ譜で記されるものである。最古の記譜法は、「古ネウマ」と呼ばれ、テクストの上に記される記号(「音の身振り」を記したもの)である。
やがて、音の高さを示すことのできる「譜線ネウマ(四角譜)」が用いられるようになり、さらに計量記譜法すると音の長さ、すなわちリズムが正確に示されるようになった。一方、こうした楽譜には「古ネウマ」では描かれていた各音節に対する繊細な歌いまわしは表せなくなってしまった。
グレゴリオ聖歌はこのように何世紀にもわたり様々な写本や印刷譜を通して流布してきたが、1889年、ソレーム修道院において最初期の資料からの研究を踏まえたグレゴリオ聖歌集『リベル・ウズアリス』が出版された。これは「音楽の教皇」とも名高いピウス10世(在位1903-1914)によって権威あるものと認められた。ピウス10世はさらに1903年の教皇自発教令においてグレゴリオ聖歌を「教会音楽の最高の規範exemplar optimum sacrorum musicorum」として、ミサの中でグレゴリオ聖歌の使用を命じた。ソレーム修道院による『リベル・ウズアリス』は「譜線ネウマ」を採用しており、現在に至るまでカトリック教会ではこの記譜法が用いられている。
日本でもグレゴリオ聖歌は古くから歌われてきたが、日本のグレゴリオ聖歌の歴史の中で特に重要なのは、パリ外国宣教会のポール・アヌイ師(1909〜1983)であろう。ソレーム唱法をローマで学んだアヌイは、1938年にグレゴリオ聖歌の歌い方を綿密に記した『グレゴリアン聖歌に於けるリズムと小節』を日仏バイリンガル版で出版しただけではなく、グレゴリオ聖歌の録音も行い、LPレコードで発売した。彼の活動はグレゴリオ聖歌の発展をもたらし、1939年には『グレゴリアン音楽学會』が設立された。主な目的は、グレゴリオ聖歌の歌い方や教え方を教えることであり、日本におけるグレゴリオ聖歌歌唱に大きく貢献した。
ポール・アヌイ『グレゴリアン聖歌に於けるリズムと小節』(1938)
第2バチカン公会議以降、ラテン語グレゴリオ聖歌の使用はカトリック教会の中で縮小されてしまった。現在でも教会によってはグレゴリオ聖歌を取り入れているという。「天使ミサ」も教皇ミサで響いている。今一度、カトリック教会の至宝であり、全西洋音楽の源泉ともいえるグレゴリオ聖歌を味わってみてはいかがだろうか。