正しさと真実


あき(横浜教区)

1.正しさ⑴

わたしは正しい。間違っていない。

人は誰でも自分の判断を正しいものとして信じ行動に移します。

仮にどんな些細なことであったとしても、自分の価値観と経験をベースに行動基準を作ります。

「当然でしょ」

それが、人間の本性と言ってしまえばそれまでですが。

以前の投稿で、謙虚に反省する気持ち、振り返る勇気が大事とお話ししました。

昨今、世界中で自分の正しさを振りかざし、ともすると戦争に向かっている状況を見聞きします。悲しいことです。

「正しさ」って何でしょうか。

人それぞれ自分の経験・立場に沿った正しさを持っています。

よく「正しい行動をとりなさい」とお母さんはこどもに伝えますが、「正しさ」そのものも普遍的なものではないのです。

 

2.プライドと自尊心

「プライド」と「自尊心」は似て非なるものだと思っています。

「プライド」は自分の行ってきたことに自信を持って生きる。だからこそ自信をもつことができるように自分の行動を絶えず振り返り、その生き方に恥じないように生きることだと理解しました。

「自尊心」は「自分の存在そのものに価値があると感じること」自分そのものが大事。自分を振り返ることもなく、ともすると慢心に陥る。

これは、わたしの感じる言葉の意味の違いですが、仮にわたしが、それぞれの言葉の意味の理解が違っていたとしても、この意味で「プライド」を持って生きたいと思っています。 皆さんは自分を振り返ると、今までどちらの行動をとっていたでしょうか。

 

3.正しさ⑵

「正しさは人によって変わるもの」というお話をしました。

その裏に「プライド」と「自尊心」が隠れているように思います。相手を意識して、時に謙虚に反省し「プライド」をもって行動することは、より正しい道を歩むためには必要なことと思います。

ただし問題なのは、前提として「正しさ」は人の数ほど無限に存在するということです。

それでは、究極の判断基準は何でしょうか。

「真実」という言葉があります。

究極の正しい事実。

人は「正しさ」の中に「真実」を追い求めます。互いの「正しさ」の中に「プライド」をもって謙虚に追及し「真実」にたどり着こうとします。

この過程で必要なのは、単に自分の「正しさ」をぶつけ合うことではなく、互いに理解しあうことです。

話し合うことで、理解が生まれ真実に近づきます。

個人的には、この話し合いが重要なのではないかと思いました。

それでは、話し合って互いに理解できた「真実」は「正しい」のでしょうか。本当の「真実」なのでしょうか。

科学者を想像するとわかりやすいですが、人文科学の学者、哲学者も含めて、人は真実を求めてきました。

しかしながらどの領域においても「真実」にたどり着いたものはいません。

「真実」の世界は、神さまの領域です。

ですから、だからこそ人は謙虚に自分を振り返りながら「真実」を追い求める必要があると思います。

別の投稿で、「諸行無常」のお話をしました。人は流転の世界を生きています。その先は神のみぞ知る。

永遠なる神さまの世界を信じ、微力ながら少しでも近づけるように追い求める。

イエス様の教えに倣い、謙虚に反省し、一歩でも神さまに近づくことのできるよう生きていきたいと思います。


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