片岡沙織
先日、子どもたちが5歳になり、ますます子育てについて悩むようになりました。次男が、まるで親の言うことをきかなくなってしまったのです。そう、この連載タイトルとなった「ママのばか」と、私に言い放った張本人です。最近彼は、右と言えば左、下と言えば上、座れと言えば逆立ちし、立っていてと言うと走り出すようになってしまいました。何を言ってもニヤニヤケラケラ。まるで人をおちょくるように、いたずら顔でこちらをうかがっている。はたから見れば、幼児がいたずらをするなんてよくある、当たり前のことなのだろうけれど。なぜ、椅子に座っていられないのか。なぜ人目を気にせずスーパーで走り回るのか。5歳児とはこのような生態なのだろうか、いや違う。同級生のお友達はちゃんと座っていられる、ちゃんとママが押すスーパーのカートに寄り添って歩いていられる。なぜうちの子は…と悩む日々を過ごしています。
彼は二つの顔を持ち合わせており、所属する保育園では優等生。ふと保育園の先生に、私が「いつもご迷惑をおかけしているかと思います」と言ったところ、「次男くんは、先生のお話をちゃんと聞いて、皆の模範として先頭に立って行動してくれていますよ!」と返ってきました。そして私は悩みました。なぜ、この子は二つの顔を使い分けているのかと。なぜ私の言うことはきかなくなってしまったのかと。ちなみに、長男は保育園でも家でも同じ顔をしているマイペースな人。あまり人からの評価に興味はなく、自分の満足が優先されるという性格です。
長男と比べても、次男は特に手がかかります。長男を挑発したり、逆に笑わせようとふざけたりするので、結果二人で大騒ぎをしてしまい、私は二人に対して大声を張り上げてしかりつける。そんな日々が続いていました。
しかし先日、なんと母である私の声が出なくなってしまいました。その原因は、風邪で咳が止まらなかったこともありますが、それよりも何よりも、子どもたちを怒鳴り続けていたからでした。何も話すことが出来ない。話したくてもヒーヒーという音しか口から出てこない。そんな状態になり、2人を叱ることが出来なくなってしまったのでした。スーパーでも、家の中でも、2人のやりたい放題。声が出ないので注意することも叱ることも出来ません。私はもうお手上げ状態でした。すべてをあきらめ、もうどうなってもいいや、そんななげやりな気持ちになっていた矢先、気づきがありました。それは、私は彼らのために怒ったり叱ったりしているのではなかったということです。
私がこれまで彼らにかけてきた言葉は、「周りの人が迷惑するでしょ」「人にぶつかる、しゃんと歩きなさい」「恥ずかしいからやらないで」「何でこんなことも出来ないの」「壊しちゃったらどうするの」「他の人はそんなことしていないよ」「ご迷惑かけてすみません」等。それらは皆、母である私が、周りの目を気にした結果放っていた言葉でした。誰かに何を言われたわけでもありません。冷たい視線を感じたり、しつけがなっていないなどと言われたことも一度もありませんでした。それどころか、スーパーの人や道行く人からは「かわいいわね」「いい子ね」「元気があっていいわね」「こんなことも出来るようになって、おりこうさんね」などなど、本当に温かい言葉をかけてもらっていたことを思い出すことが出来ました。
私が彼らにくどくどガミガミ言っていた原因は、私が周りの目を気にして、しつけが出来ない親、ちゃんとしていない母、などと思われたくなかったからだったのでした。(ちなみに、しつけもちゃんとしているとはおくびにも言えませんが)。聞こえない声、見えない視線を想像し、自分を守るために彼らを叱っていたのかもしれないと、気づき、私はとても反省したのでした。
そしてそれからは、あまりガミガミ口出しせず、よくよく2人の行動を観察してみることにしました。すると、今まで知らなかった一面がよく見えてきたのです。
2人は、ただただふざけているのではなく、夢中で2人の世界で遊んでいたのでした。鬼ごっこ、氷鬼、お化け屋敷ごっこ、おままごと、戦いごっこなどをしながら、言葉をたくみに掛け合って、2人は自分たちの世界を自由に駆け回って遊んでいました。ちなみに最近、彼らが夜によくする遊びが、「冒険ごっこ」です。光るおもちゃを2人で携えて、「よし、ぼうけんのたびにでかけよう!」と言い、押し入れや倉庫、電気のついていない寝室などに繰り出していきます。よく「ママも一緒に遊ぼうよ」と誘われますが、私は面倒くさいので、だいたいは「2人で遊んで」とお断りしています。そうすると、2人でぺちゃくちゃお話ししながら、きゃっきゃと大笑いしながら、時に大喧嘩しながら遊ぶのです。
声が出せなくなったことがきっかけでしたが、私のこだわりを少しわきにおいて、子どもたちに接してみて、彼らがとても純粋に生きることを喜び楽しんでいるのだ、と感じるようになりました。次男が親の言うことを聞くようになったわけではありませんが、次男の行動の理由は分かった気がします。
『心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。』聖書はそのように子どもを表現します(マタイ18:3、口語訳)。
子どもたちを見ていると、その意味が分かるような気がするのです。遊ぶときもすべてをかけて全力で遊び、勝った負けたで大泣きし、感動したときには花火が上がったかのように全身で喜びを表現します。どんなに大粒な宝石よりも輝いて見えるどんぐりを後生大切にポケットにしまい、恐れなど全く抱かずに黄金に輝く銀杏の葉っぱのプールにダイブする。雨が降ればブンブン傘を振り回してびっしょりに濡れ、大きな水たまりにぐんぐん入っていきます。長靴の中まで水が入ってしまったって気にしません。雷が雲の中をピカピカと渡るのを夢中で見続けてはワーキャー言い、大風の日には大笑いして風に身を任せて飛んでみようとする。おばけが出るんじゃないかと闇夜に脅え、雪が降れば雪の上をゴロゴロ転げまわり、カンカン照りの公園でだって何十回も滑り台を滑り続ける。そして夜はベッドで絵本の世界を夢中で旅し、ついには電池が切れたようにこてんと眠り、また夢の中で冒険の旅に出る。なんて自由なのだろうかと、なんて幸せなことなのだろうかと、毎晩彼らの寝顔を見ながらそう思うのです。
今は次男に振り回されて、どうしたものかと悩むときも多いのですが、それでもすべてをひっくるめて、この子たちと過ごせることに幸せを感じます。この世界に生きることが出来る喜びを、子どもたちを通して私も感じることが出来るのです。
現代の社会はとても生きにくい。人目を気にし、社会を気にし、共同体の目を気にして、家族の恥にならないよう、社会の迷惑にならぬよう、ちゃんとすることを求められていると感じてしまう。しかし、そんなことよりもっと大切なことを見失ってはいないでしょうか。子どもを育てる責任を一人で背負いこみ、どんどん自分自身で苦しくなってしまっているお母さんは、私のほかにもいるかもしれません。まだまだ私も「ちゃんとしなきゃ、ちゃんとさせなきゃ」から抜け出せませんが、聖書の言葉をいつも胸に、限りある彼らとの時間を、大事に過ごしていけたらと思うのです。