わたしのかみさま


あき(横浜教区)

わたしも70歳近くになりました。

60歳を超えた頃でしょうか。「自分もいつかは死ぬ」、「この世からいなくなる」、「息をしなくなり土にかえる」といったことが頭をよぎり、「死ぬってどういうことなんだろう」、「こうして考えるわたしが存在しなくなる。」と思い、そんなことを考えていると死ぬことが本当に怖くなりました。

 高校生の頃、「死ぬってどういうこと」「わたしがいなくなる?」と同じことを考え、自分が奈落の底に回転しながら落ちていく夢を何度も見たことがあります。

当時、どういうつながりか忘れましたが、遠藤周作を読みあさり、その後イエスさまに導かれました。しかし今から思えば、当時はまだ若い。自分が「死ぬ」といっても今ほど実感はなかったでしょう。

60歳を過ぎてまた死を意識していろいろ本を読みあさりました。

そして結果から言えば自分なりに理解できたことがありましたので、ここにご紹介したいと思います。

個人的には胸のつかえが腑に落ちました。

これからお話しすることは、あくまで一信者の発言ですので、もしかしたらキリストの教えと違うことがあるかもしれません。

皆さんも年を取るにつれ、「死」を意識することがあるでしょう。それぞれ腑に落ちる理解をもって、天国に旅立ってください。

 わたしは理科系の人間ですので、宇宙や太陽系その他の天体。そしてウイルスや微生物に至るまで、物質世界の中の一生物としてわたしが存在しているという理解が最初にあります。それも意識をもって考える生物。

 物質はすべて、原子や素粒子などの合成によってできているというのが科学の世界です。死んでしまえば、自然の摂理により分解されてしまうのでしょう。

紀元前5~6世紀頃、釈迦(ガウタマ=シッダールタ)という人が、仏教という教えを伝えました。仏教もいろいろな形に教えの中心を変えていきますが、釈迦は「人はどうすれば苦しみから解放されることができるのか?」ということを悟った方のようです。

 いろいろな教えの中で、わたしは「諸行無常」という言葉に心が動きました。「すべてのものは常ならず」、「河の流れは絶えずして同じにあらず」、この世界はすべて「変遷の中の一様にすぎず」というのです。確かにこれは真理。

何千年も前の人が、いまの人と同じようなことを考えている。なんか、時を超えて生き方を考え、苦しんでいることをすごく身近に感じました。すべてのものは形を変え、ありようを変えて存在します。

毎朝わたしは飼い犬を連れて近所の公園に散歩に行きます。公園の木々はわたしが子供の頃より幹がずっと太くなりました。春になれば花が咲き、夏の青空を見上げ、秋は銀杏を拾います。時の流れとともに公園の様子も変わります。

わたしは時の旅人になります。

そしていつしかわたしは老人の領域になりました。

「諸行無常」

自然界は、時間とともに移り変わるのが真理です。

「死にたくない」は「この真理に逆らおうとするから苦しいのだ」ということに気が付きました。どんな人でも「死」を避けることはできません。

「自然界の真理に逆らう気持ちが恐怖を起こす」

釈迦が「人はどうすれば苦しみから解放されることができるのか?」という一つの解として「真理を受け入れること」という理解がちょっとだけ気持ちを軽くしました。

この世の中のすべては「諸行無常」。いにしえの釈迦は「そんなことを言っていたんだなぁ」昔も今も悩みは同じ。そのこころを身近に感じました。

 ただわたしの場合、それだけでは納得できない自分も残っていました。宇宙の中のすべてのものは「諸行無常」。それはわかりました。でも、単に「無常」なのでしょうか。

科学はそんな「無常」な世界を少しずつ解明していきました。 そして科学者はそんな世界の中に一定のルールや秩序が存在することに驚きました。

「だれがそんな秩序を構築したのだろう」

 我々がはかり知ることのできない大きな存在がある。

人間の理解をはるかに超えた大きな存在がこの宇宙の在りようを司っている。

そう思うと、わたしは納得できました。

キリスト教を信仰しているわたしは「それが神さまなんだ」と感じました。

私たちは神さまが司っているこの世界の一瞬の中で命をいただいて「考える生物」として生きている。

いずれ「諸行無常」。わたしは形を変えて神さまの世界へ帰っていく。そしてまた神さまのご意思により形を変えていく。そう考えました。

 宗教はいろいろありますが、宗教とはそんな真理を基盤として人間としての生き方を教えてくれるもの。 わたしにとってイエス様は、人としての生き方について愛を通して教えていただく方。そう理解しました。

 わたしは何れ土にかえり、神さまの元に帰るでしょう。神さまのご意思の元、形を変えて戻ってくるかもしれません。そればすべて神さまのわざです。これが70歳前のわたしの理解でした。

与えられた命が尽きるまで、神さまのご意思に従い、イエス様に倣いながら目標をもって生きていく。

いかがでしょうか。

皆それぞれに自分の存在意義や神さまとの関わりなどイメージが違うのではないでしょうか。

わたしもまた思いが変わるかもしれません。

「死ぬことは生きること」

皆さんも考えてみてはいかがでしょうか。


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