縄文時代のイキイキ生活—1.出産土偶の発掘現場から食の文化をおもう


森 裕行(縄文小説家)

 私が学生時代のころ、スーパーコンピュータのメインメモリーは1MBとか2MBだった。それが今はスマホでも4GBとかで軽く1000倍以上。様変わりしたデジタル社会では、美しい動画が溢れ、必要な情報は瞬時に手に入る。街もこの数十年で大きく変わり、昔のように歩道に犬の糞もなく、安全で綺麗だ。しかし、少し違和感を感じる私は、変なのだろうか。私が住む東京の郊外の多摩。運動不足もあり夕方に散歩することが多くなった。デジタル機器に囲まれる日々だが、その時間はスマホも家に置いて手ぶらで過ごす。そして、大栗川の川辺をのんびり歩き、水鳥や昆虫を眺めたり、草木と同じように風を受けて歩く。雨上がりであれば、雨の匂いを感じたりし。五感のリアルな世界に浸っていく。多摩丘陵はかつて石を投げれば縄文遺跡と言われるほど、縄文時代の遺跡が多い。そして、その時代の先祖たちは100%五感世界に生きていて、今のような問題を抱えるデジタル社会とは無縁。情感豊かに真善美の世界を生きていた。縄文時代のイキイキ生活……生活の隅々にまで祈りが満ち溢れていた世界を見つけにいこう。

 

1.出産土偶の発掘現場から食の文化をおもう

 私は東京都八王子市に住んでいるが、全国的に有名な子抱きが出土した宮田遺跡がある。それは、八王子市の多摩川支流である川口川の中流域右岸の縄文時代中期の勝坂期(約5000年前)の遺跡であり、近くには対岸の中原遺跡ややや下流の楢原遺跡がある。

子抱き土偶は横座りで赤ちゃんを抱く像で、母の愛情がにじみ出ている像であるが、具体的でわかりやすい土偶は縄文時代では珍しく、この時代5000年前と地域(甲信、南西関東)特有なもので、出産土偶と命名されている。

次の楢原遺跡の鳴る土偶もお腹に鳴り子が入っていて、妊娠している女性の姿であり分かりやすい。

さらに、中原遺跡からは土偶が土器の口縁についた顔面把手付土器が出土している。これも同じ時期・地域特有の土器である。顔面把手付き土器とペアで出土した独特の得体のしれない動物にも見える土器も同じである。両方の土器とも下部が狭まり、キャリバー型であり、武藤雄六氏「中期縄文土器の蒸器――櫛型文土器の変遷と意義」『信濃』1965により、このタイプの土器が中敷を入れ蒸し器として使われたことを初めて指摘された。

 

 ところで、資料を渉猟すると、子抱き土偶が1968年7月下旬に南多摩高校地歴部によって、楢原遺跡の鳴る土偶は19654〜5月に国学院大学生、高校生等によって発掘され、中原遺跡の顔面把手付き土器等は1960年に都立第二商業高校考古学部が中心となって出土されたのが分かる。私が小学生~高校生の時期であり、私と同年齢の学生が先生方の指導の下にイキイキと発掘作業をしていたのだと思うと何か胸が熱くなる。八王子に住んでいたなら、私も若くして考古ボーイの人生を始めていたかもしれない。

閑話休題、発掘報告資料だが、当然ながらどのような竪穴式住居址のどのあたりから発掘されたとか、どのような土器や石器が発掘されたかを知ることで、縄文時代の当時の生活が類推できる。例えば、石器では次のような打製石斧が、この時代・地域では沢山出土している。

 打製石斧という名称から斧ではないかと誰もが思うのだが、実際は土を掘る時に使うもので棒の先につけて、ヤマイモ、クズ、ヤマユリ、ウバユリなどイモや鱗茎類を掘り出す時に使ったと言われている。さらに、竪穴式住居での掘削にも使われたのだろう。都埋文センターのモデルの右手に持っている道具がそれである。なお、川口の郷土史家 高澤寿民氏は「武州多摩郡川口」(揺藍社1985)の中で地元の縄文遺跡周辺にヤマイモが今でも多く自生していることから打製石斧がヤマイモ掘りに使われたのではないかと類推している。

 もちろん、堅果類のクリ、ドングリ、クルミが当時の主要な食糧でもあったことも別に分かっている。このほか、学問の進歩で土器や土偶についている圧痕から、小豆やタンパク質に富む大豆の存在も明らかになり、低湿地遺跡などからヒョウタン、エゴマ、リョウトクなどの利用、さらにワラビ、コゴミ、アサツキなどのビタミン豊かな山菜も利用され、豊かな植物摂取が行われていたことが分かってきている。また、山なのでイノシシやシカなどの狩猟も行われており、土偶の背景には農耕的な食事儀礼(ハイヌヴェレ型の女神神話の研究が有名)だけでなく、イノシシをはじめとする動物に関わる食事儀礼もあったのではないかと考えられる。中原遺跡の顔面把手付き土器と同時に出土した土器からイノシシなどの動物の食事祭儀と関係づける研究も現れているようだ。

因みに、縄文時代中期の生活は資料館や博物館の展示でよく見かける、土器や石器だけでなく、東京都埋蔵文化財調査センターの写真モデルのように弓(木製)、ポシェット(籠など編組製品)、衣服(カラムシ、アサなど植物繊維)、装飾品(貝、土製、など)など多様である。日本の土はおおかた酸性であり、殆どの有機物(骨も含む)は200年もしないうちに溶けてしまうが、考古学も理化学的研究分野との提携で当時分からなかったことがどんどん分かってきている。

 ところで、中原遺跡で出土したような立派な土器でどのようなご馳走が調理されて、食べたのであろうか。縄文クッキーが話題になるが、イモやドングリ等からのデンプンをベースに栗やイノシシの肉などを混ぜたりした餅状のものを、中敷きをいれてふかしたもの。時には獲物の肉などが藻塩や山椒を始めハチミツや栗、果汁などから微妙な味付けで、楽しむことができたのではないだろうか。今後の学問の進歩で味付けまで再現できたらどんなに素晴らしいだろう。

 食事は命をいただく行為であり、食べた植物や動物は消化器官を通しアミノ酸レベルに分解され、人の身体の中で遺伝子によって必要な細胞に再生されていく。食事は、生命を頂き生き続けるという根源的な営みなのだ。自戒をこめて思うのだが、現代人は何を食べているかもよく理解しないで、カロリー計算ばかりをしているが、縄文人は命の本質を見抜き、食事祭儀を村の聖なる中央広場で行ったのだろう。「いただきます」という食前の言葉は、実に祈りそのものなのだ。

*「縄文人のくらし大研究」小薬一夫監修 岡崎務著 PHP研究所 2014年を参考にしました。


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