縄文時代の愛と魂~私たちの祖先はどのように生き抜いたか~ 19.種子島より愛をこめて


森 裕行(縄文小説家)

 

19.種子島より愛をこめて

 命の危機に晒された子供のころの非日常的経験は、本人の人生への影響だけでなく、もっと普遍的な生命・愛の理解への扉となるように思う。詩人・岡村光章は狩野川台風の被災経験。私の場合は小学校一年の登校時の四ツ谷外堀通りでの友達の交通事故死なのだろう。

 子供の眼というか五感は鋭く、その時の真実を捉えて記憶されているので、当時の喜怒哀楽を越えて人を魂の世界に誘う。そして、その記憶は人生の様々な局面で重なり、エリクソンの人格形成論的に言うと、青年~成人期のころには善、中年以降は美の人生に影響を与えていく。

 個人の経験に似て、集団の歴史も同じようなところがあるのではないか。ホモサピエンスの歴史は20〜30万年前のアフリカ大陸での歴史から始まるが、一番の危機は75,000年前にインドネシアで起こったトバ火山の破局的噴火の影響で地球が寒冷化し、ホモサピエンスの人口が数千から一万人程度に縮小し、種の最大の危機に陥ったと言われる。衣服の着用やアフリカからユーラシア大陸等世界に大きく拡散するようになったのもこの影響かもしれない。

 災害というと『地震、雷、火事、おやじ』と地震の恐ろしさは語られるが、火山の噴火、特に破局的噴火は私達自身が経験していないためか殆ど語られない。しかし、考古学を学んだりしている者は日本のどこでも散見できる地層のAT層などを通し、30,000年前に鹿児島で姶良丹沢の破局的噴火があったことを学ぶ。その規模は1,707年の富士山宝永噴火の720倍、ヴェスビオス火山の数百倍と言われる。この時代は旧石器時代であるが、既に日本列島には私たちの祖先は住んでいたので、こうした噴火を経験したのだろう。

 破局的噴火がどのようなものであったかについては、それが21世紀に起こったらというシナリオの優れた小説があり、火山学者や考古学者をうならせた。『死都日本』(石黒耀著 講談社 2008年)である。機会があれば是非一読されたらと思う。5000年から10,000年間隔とも言われる破局的噴火は私たちが出会うことは殆どないと思うが、祖先が経験したことは確かなのである。

 さて、7月の中旬に種子島に行った。種子島と言えばロケットと鉄砲伝来で有名だが、旧石器時代や縄文時代の驚くべき遺跡があることも知られ、南九州の縄文早期の進んだ縄文文化と共に、憧れを胸に、行くタイミングを見計らっていた。そして、念願が叶いNPO法人国際縄文学協会主催のツアーに参加したのだった。私の最大の関心は縄文時代の鬼界アカホヤ噴火(7,300年前であり、祖先の生きざまに触れることであった。幸運なことに、今回のツアーには内山純蔵金沢大学客員教授,九州大学比較社会文化研究院の桒畑光博博士,南種子町教育委員会の小脇有希乃氏が同行され直接説明を受ける幸運があったが、丁度お三方をはじめとする8名の国際共同研究がイギリスの考古学専門誌『Antiquity』のベン・カーレン賞を受賞され、世界的な関心を集めている時でもあり、高揚感溢れる楽しいツアーであった。

 受賞論文はこちら

 鹿児島から私は飛行機で行ったが、種子島空港自体が縄文草創期の14,000年前の住居址を含む遺跡で驚いた。そして、その遺跡も7300年前の鬼界アカホヤ噴火のテフラ等で広範囲にわたり埋没していた。鬼界アカホヤから約40kmの地であり、当然ながら海上からの火砕流等で、豊かな森林で覆われ動植物や人間の住んでいた平和な島も、全て廃墟と化したようだ。従来は、この鬼界アカホヤ噴火で九州は壊滅したと言われていたが、最近の綿密な調査研究により九州北部を中心に生きながらえる人も存在し、轟式の土器は噴火の前後で途切れることもなく続いたそうだ。また水月湖の世界標準の年稿によるAMS値の補正向上など、科学的研究も深まり新事実が次々明らかになってきたようだ。

種子島空港:三角山遺跡 筆者撮影

南端の門倉岬より 筆者撮影

門倉岬側で鬼界アカホヤの地層を見学 筆者撮影

鬼界アカホヤは南九州の発端から約50km, 種子島から約40kmのところで噴火した火山であるが,今でも30cmとか(当初はその2、3倍)の厚さの火砕流の地層が南部で見られる。層の下の方には軽石やガラスを含んで粒々の塊が見られる。

当時の照葉樹林等が高熱で炭化しているのが観察できる。筆者撮影。

 

(受賞論文より)

破局的噴火で巨大な火砕流本体は海を渡り南九州や屋久島、種子島南部に及んだ。当然ながら照葉樹林に覆われていた豊かな種子島は全くの死の世界と化したであろう。

噴火後約200年してから無人と化した種子島も海岸部から人が再び住みはじめ、海産物やわずかに生育している葛等からデンプンを抽出して食料とし、次第に内陸部に進出して行ったようすが研究により捉えられた。鹿やイノシシといった動物も壊滅しているのだろうから、可能性の一つとしてウリボウや小鹿を丸木舟で積んできた祖先もいたかもしれない。ただ、もとの種子島に戻るのは2,000年かかったと言われる。

筆者撮影

種子島マングローブパークにも訪れ説明を受けたが、当時の食料となった海産物も今と同じようだったとのことで、蟹やハゼを見入る私達はあたかも当時の縄文人に化したかのようだった。本土からか黒潮の激しい海流を越えここにやってきた縄文人。その動機はなんだったのか、交通の要所の種子島に到来した祖先の具体的なドラマを妄想したりした。

火砕流の直接的被害の恐ろしさはヴェスビオス火山などで知る方も多いが、大量の火山灰による生態系への被害、河川等への影響、さらに想像を絶する土石流被害なども破局噴火の特徴のようだ。もちろん津波や海中の生態系も大きな損傷を受けたであろう。日照への影響から世界的な寒冷化はどのくらい続くのだろう。こうしたことから、縄文人の被災者の身体への影響や心の傷を想像すると胸が痛くなる。

戦後生まれの私は戦争を知らない。また縄文人のような破局的噴火も知らない。ただ、その片鱗を子供の頃に垣間見た体験はあるかもしれない。悲惨さの中で私達は何に触れるのだろうか。内的静けさの中で、その記憶にそっと触れる時に、不思議に希望を見出し、自分の最奥の神仏の似姿に回帰する努力を始める。

岡村光章の狩野川台風の幼い頃の体験の詩を引用しよう。

・・・

停電で電灯は点いていない

 月光と星の瞬きのみ

 幻想的できれいな風景だった

 と記憶している

(詩集 原風景への道程 第一集『最も遠い記憶』 岡村光章著 文芸社 2021)

縄文人のレジリエンス(困難を乗り越えて回復する力)が時空を超えて表現されているようだ。これで、昨年からの「縄文時代の愛と魂」を終了したい。


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