永井隆の霊性~その人生と願い


ひでか(大学院生)

皆さんは永井隆という人物をご存知でしょうか。長崎の原爆で被爆した博士としてご存じの方もいらっしゃるかもしれません。しかし私は大学の授業で学ぶまで永井隆について深く知る機会はありませんでした。また彼はキリスト教信徒の中でも、そこまで一般化した人物とは言えないかもしれません。しかし海外では(特に欧米において)知る人が多く、日本よりも永井隆と妻(緑)の列福列聖運動が活発なほどに注目を集めています。永井の人生と残した著作はキリスト教の信徒、また全ての生きる人々を勇気づけ、心を温かくさせます。ここではその人生と永井の願いについてお話したいと思います。

 

1.永井隆の人生について

彼の故郷は長崎ではなく1908年2月3日に鳥取県の松江市に父の寛と母のツネの間に生まれます。彼の父は村の開業医をしており、利益の追求ではなく人々に寄り添う人物であったそうです(片山はるひ「第Ⅱ部 日本という土壌にて 7 永井隆の人生と著作に学ぶ」光延一郎編著『2007年 上智大学神学部夏期神学講習会講演集 今、日本でカトリックであることとは?』サンパウロ、2009年を参考)。また両親について永井はこのように語っています。

「私は、父と母とが毎夜いかにも楽しそうに勉強しているのを見て、勉強は楽しいものだなと思った。」

(永井隆『ロザリオの鎖』サンパウロ、1995年、288頁より)

左から永井、母(ツネ)、父(寛)(出典:長崎市永井隆記念館ホームページ「永井隆ストーリー 第1章 おいたち」より)

両親の勤勉な背中を見て育った彼は、成績も非常によく、当時できたばかりの長崎医科大学に進学し将来有望な内科医として期待されていました。彼は浦上に住むこととなりその下宿先である森山家の娘が、後に妻となる緑でした。永井の浦上との出会いには多くの岐路がありましたが同時にあの原子爆弾という恐ろしい悲劇に見舞われる運命をたどる道ともなります。これは第1の岐路と言えるでしょう。そしてこの頃の永井は、高校生の時に出会った「唯物論」に憑りつかれたように熱心でありました。

そんな中で母ツネが病死しますが、その死の間際における母の眼差しから「霊魂を否定していた私がその目を見たとき、何の疑いもなく母の霊魂はある、その魂は肉体を離れ去るが永遠に滅びないのだ」(永井隆『ロザリオの鎖』17頁)という霊的な気づきを経験します。このことは魂の尊さ、そして普遍性を知るきっかけとなり、これは永井隆の「回心」となったといえるでしょう。この回心を経て、永井はパスカルの『パンセ』と出会います。永井は信仰深いカトリック信者であったパスカルの言葉を「真理だ」(永井隆『ロザリオの鎖』19頁)と表現し、そこから少しずつカトリックの信仰に興味を持つようになりました。これは第2の岐路です。

また卒業式の5日前に開かれたクラス会に参加した永井は、その晩に心地良く酔っており雨に打たれながら下宿先へと向かいました。しかしこの出来事がまたも運命を変えることになるのです。彼は急性悪性中耳炎にかかり生死を彷徨いますが、難聴の障害が残るだけで命を取り留めます。ですが耳に障害が残ることは聴診器を使用する内科医にとって、致命的なものとなりました。しかし医者の道を断念することはなく、ある教授からの放射線医学の研究の誘いにより、彼の運命は本格的に動き出します。この研究への道が第3の岐路となります。

そしてある晩、下宿先の娘の緑が腹痛を起こし、冬の寒く暗い道を永井がおぶって病院へと運び手術をするという事件が起きます。このことは二人が愛で結ばれる運命のきっかけとなるのです。その後、彼は満州事変の従軍へと向かい、そこで緑から送られた公共要理という本に出合います。この出合いが大きな回心となり、帰還後に洗礼を受けるきっかけとなりました。この回心は永井にとって自分がそれまでいかに心が貧しく、罪深い者であったのかという気付きであり非常に苦しいものであったそうです(永井隆「祈る人」『亡びぬものを』中央出版社、1948年を参考)。洗礼を受けた後、彼はあの緑との結婚を果たします。これが第4の岐路です。

その後、長男の誠一が生まれ、長女の郁子が生まれますが、2年ほどで病気にかかり亡くなります。そして次女の茅乃が生まれ、三女の笹乃が生まれますが、三女の笹乃も病死してしまいます。これほどまでに大きな苦しみを乗り越えながらも、永井は戦争の出兵や研究に全力で取り組み、多くの出会いと試練と共に歩んでいました。しかし彼の身体は放射線におかされ、慢性骨髄性白血病という大病にかかります。その余命はなんと3年であり、つまりは3年で妻を未亡人とし、子どもたちを父親のない子どもとしてしまうという運命を意味していました。

このような危機的状況に置かれても尚、永井は家庭よりも研究を熱心に続け、妻の負担は大きくなっていたことでしょう。しかし短い時間で自分の生きた証である研究を成功させたいという思いもあったでしょう。何よりも永井は妻の明るい態度を信頼し、研究に向かっていたのです。夫の余命を知らされた妻の緑は彼にこのような言葉を伝えました。

「生きるも死ぬるも神さまのご光栄のためにネ」

(永井隆『亡びぬものを』334頁より)

この言葉は緑の信仰の深さと、人間性、そして強さを感じさせます。悲しみを抱きつつも、最後まで夫を支え子どもたちを育てる覚悟があったのでしょう。ですが家庭を顧みなかったこと、妻をいたわらなかったことは彼にとって人生最大の後悔として残ることとなります。これは第5の岐路です。

8月8日の朝、彼はいつも通り家を出ましたが妻の作った弁当を忘れたことに気づき、再び家に戻りました。いつもは気にしないはずの弁当がその時は非常に重要だと思ったそうです。すると妻は肩を震わせて泣き伏していました(永井隆「灰」『亡びぬものを』343頁~344頁を参考)。しかし彼は妻に声をかけることなく、家を出たそうです。そして8月9日の朝のことです。

「十一時二分 ピカッ! と光った。」

「あっと叫ぶ声が出るかでぬか、浦上一帯、地上のありとあらゆるものは音もなくつぶれていた。その火の手はいちめんに立った。 この原子爆弾が第二次世界大戦のピリオドであった。」

(永井隆「灰」『亡びぬものを』344頁より)

原子爆弾は妻の緑の命を奪うと共に、研究、財産、生活の全てを奪い去りました。永井の脳裏に残る妻の最後の姿は、肩を震わせて泣いている姿となってしまったのです。彼は妻を悲しませてしまったことの後悔を死ぬまで抱き続け、妻への愛と共にその後悔と向き合い続けました。これが第6の岐路です。幸いにも二人の子ども、長男の誠一と次女の茅乃は爆心地から離れた場所に疎開していたため無事でした。ですが永井は原爆によって持病に加えて原子病にもかかり、日常生活がままならなくなってゆきました。

しかし永井は被爆してから数カ月で『原子爆弾報告書』を長崎医科大学に提出し(1945年10月15日)、その後、亡くなる間際まで執筆を続けました。僅か6年の間に多くの著作を執筆し、彼は現代に生きる私たちにも命の尊さ、美しさ、そして儚さを訴えています。

 

2.永井隆の願い~摂理と恵み

永井隆が残した著作は、多くの人を感動させる言葉をたくさん残していますが、一方で一部では批判的な声もあります。その批判は永井の「摂理論」に向かっています。彼は摂理を自著『長崎の鐘』の中で示しました。当時、原爆で亡くなった人々は「天罰が下った」と非難されることもあったそうです。以下の言葉は妻と5人の子どもを失った友人の市太郎に永井が掛けた言葉です。

友人:「わしゃ、もう生きる楽しみはなか」

永井:「戦争に負けて誰が楽しみをもっとりましょう」

友人:「そりゃそうばってん。誰に会うてもこうですたい。原子爆弾は天罰。殺された者は悪者だった。生き残った者は神様からの特別のお恵みをいただいたんだと。それじゃ私の家内と子どもは悪者でしたか!」

永井:「さあね、私はまるで反対の思想をもっています。原子爆弾が浦上に落ちたのは大きなみ摂理である。神の恵みである。浦上は神に感謝をささげねばならぬ」

(永井隆『長崎の鐘』サンパウロ、1995年、142~143頁より)

確かにこの言葉だけを見ると、浦上に落ちた原爆が御摂理であると誤解してしまうかもしれません。ですが、そうではないのです。「浦上四番崩れ」をご存知の方もいらっしゃると思いますが、浦上はキリスト教史において重要な場所であり、数百年の間、禁教令によってキリシタンたちが多くの苦しみと死を遂げた地域の一つです。永井はこれらの歴史を踏まえて、浦上という地を聖地として捉えていました。神の御計画が原子爆弾そのものや、投下されたことなのではありません。浦上という場所が選ばれたことに「摂理」を見出しているのです。

浦上に投下された原爆は元々他の場所に落とされる計画であり、その都市の上空に雲がかかっていたため直接の攻撃ができず、予定を変更して長崎に落とすこととなったのです。そして長崎野軍需工場を狙ったはずが、雲と風の影響によって少し北に偏って浦上天主堂の正面に落ちてしまったそうです(永井隆『長崎の鐘』144頁~145頁を参考)。

永井は浦上という場所が選ばれたことを「摂理」と捉え、そうすることで原爆によって亡くなった多くの方の死に意味を見出すことに繋げています。つまり彼らの死は、ただの不運な偶然や無意味な死なのではないことを示しているのです。その思いを永井は次のような言葉で表現しています。

もしもこれが事実であれば、米軍の飛行士は浦上を狙ったのではなく、神の摂理によって爆弾がこの地点に落とされたものと解釈されないこともありますまい。終戦と浦上潰滅との間に深い関係がありはしないか。世界大戦という人類の罪悪の償いとして、日本唯一の聖地浦上が犠牲の祭壇に屠られ燃やされるべききよき羔(こひつじ)として選ばれたのではないでしょうか?

(永井隆「原子爆弾合同葬弔辞」『長崎の鐘』145頁より)

この言葉は浦上に起こった苦しみが世界最後のものとなり、浦上が世界平和の始まりとなること、そして人類が再び同じ過ちを起こさないことを願っているのだと考えます。そしてこの浦上の苦しみは、キリストの受難と贖いを重ねた永井の信仰であるといえるでしょう。永井はその平和と贖いについて、同じく「原子爆弾合同葬弔辞」で次の言葉を残していますが、その一部をご紹介します。

主与え給い、主取り給う。主の御名は賛美せられよかし。浦上が選ばれて燔祭に供えられたる事を、感謝致します。この貴い犠牲によりて世界に平和が再来し、日本の信仰の自由が許可されたことに感謝致します。

希わくば死せる人々の霊魂、天主の御哀隣によりて安らかに憩わんことを アーメン。

(永井隆『長崎の鐘』148頁より。また同書143頁~148頁も参照)

この言葉はカトリック信徒に向けられたものであるが故に、キリスト教信者が理解しやすい「主」や「燔祭」という言葉で表現されています。しかしこの祈りは原爆によって亡くなった人々、そして苦しみ続けるすべての人へ希望となるように手向けられた言葉なのです。前述にもありますが、神の「御摂理」は原子爆弾ではなく、浦上という場所が選ばれたことなのです。そして永井の願いは平和と自由であり、その先に生きる未来の子どもたちの幸せが全ての著作に記されている世代を超えたメッセージとして残されています。ここで紹介したことは、彼の人生と言葉のほんの一部です。読者の皆様に少しでも興味を持って頂けたらと思います。

 


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