ママのばか(4)親ガチャ外れた


片岡沙織

「親ガチャ外れた」

先日、とある生徒がこんな題名を付けて作文を書いてきました。私はびっくりして、そしてその内容が気になりすぎて、夢中で読んでしまいました。それは一瞬で心が奪われる文章でした。親への恨みつらみを、いろいろな視点で書き上げた名作。その作文を皆さんに共有できないのが残念ですが、今日はそんな彼の「親ガチャ外れた」という言葉から、いろいろと考えてみたいと思います。

「親ガチャ」はニュースなどで耳にした方もいるかもしれませんが、子どもは自分で親を選ぶことができないという今どきの表現です。「親ガチャ外れた!」と憤慨していたその子の一番の訴えは、手料理をもっとちゃんと作ってほしいとか、家にもっと早く帰ってきてほしいといったものです。しかしそれは実はうわべだけの話で、要は「ありのままの自分を見てほしい、認めてほしい、愛してほしい」と訴えているのだと感じました。

2021年にユーキャン新語・流行語大賞のトップ10に選出された「親ガチャ」というこの言葉。それは現代の子どもたちからの、「愛」を求めるメッセージなのかもしれません。ただ、その愛を求める感情は、愛を知っているからこそ、足りないことを訴えられるのだとも思います。基本的な愛情、信頼を得ているからこそ、欲するものなのかもしれません。親の手を少し離れる、自立の途中にある不安定な青年期、ちょうど親は子どもと仕事との両立を図るとき、それはもしかすると、親と子どもとのコミュニケーションが不足していくタイミングなのかもしれません。

私は職業柄、里親である保護者の方と話をする機会が多くあります。これまでお会いしたすべてのそのような保護者の方達を尊敬してやみません。どのご家庭でも、お預かりした子どもたちと、それはそれは大事に向き合い、育てあげていらっしゃいます。複雑な環境ですから、私の想像を超えるような困難もたくさんあるのだと思います。それでも、冷静に、一生懸命に、子どもの事を想い、育てている。里親のもとで育ったお子さんはというと、愛情をたっぷり受けて、保護者の方に甘え、何かで躓いたとしても、ちゃんと話を聞いてもらい、前を向き背中を押してもらっている。そのような家庭を、これまでたくさん見てきました。要は血縁であるかどうかに関わらず、大切にしてもらった子どもは「愛着」をきちんと形成し、人生に期待して生きていけるのです。

愛着とは、幼児期までの子どもと大人との間に形成される情緒的な結びつきの事を言います。無力な何もできない赤ちゃんが、ミルクをもらったり、おむつを替えてもらったりと、身体の世話をしてもらうことを通して自立するとともに、育まれていくものです。それは、保護者から無条件に愛される経験であり、人間がこの世に生きていく中で、最も重要なベースとなるものです。この愛着が形成されることで、人間は「この世の中に生きていていいのだ」という全面的な信頼感を持つことができる。その感覚は、いくらテストの点数が高くても、進学した大学のランクが上位でも、決して得られないものです。

私が心底すごいなと思うのは、さらにここからです。ある里親の保護者の方が、年ごろに育った中高生の子どもと、ちゃんと家庭で腹を割って話をしているのだということでした。簡単なように思えるかもしれませんが、これは実はとても難しいことだと思います。ましてや、自分の出生、自分の今後の人生の選択、感情、いろいろな複雑な事柄を、多感な青年期に双方が信頼しあって、心を開いて話をすることができる。どれほどエネルギーがいることでしょうか。どれほどこの子をちゃんと育てなければという真剣な想いがあることでしょうか。その保護者の方を心底尊敬した瞬間でした。同時に、自分が恥ずかしくなりました。これまで、4歳になる自分の子どもの声を、私はちゃんと聞いてあげられていたかと、反省したのでした。

イエスの父、ヨセフが良い例になるかもしれません。

ヨセフはイエスの実の父ではありません。それはよく知られていることです。しかし、その状況はとても過酷なものだっただろうと、想像します。ヨセフもマリアも、イエスでさえも、周りからは後ろ指をさされたかもしれません。イエスは周りから悪口を言われたことも少なくなかったのではないでしょうか。同じような年ごろの子どもたちからも、からかいやあざけりがなかったとは考えられません。ナザレの村での生活は、ヨセフたち一家にとって、完全に幸せな環境だったとは言えなかったでしょう。もう嫌だと、なんでこんな運命を背負わなければならないのかと、嘆くことは無かったのでしょうか。涙を流した少年イエスの傍らに、ヨセフはあたたかく寄り添い話をしたのかもしれません。負けずに前を向けるよう、支え続けたかもしれません。

イエスが青年期をどのように過ごしたかは想像するしかありませんが、もし仮に悩み深い青年期を過ごしたとしても、公生活を始めた頃には、完全に自己同一性を確立して、立派な成人になっている。その結果から見ても、ヨセフはマリアと共に、周りからの圧力にも負けず、イエスがこの世界を信じて生きていくために十分な愛情を、いつも注いであげたのだろうと想像することができるかもしれません。

「子ども」の置かれている状況は、一瞬で様変わりすることもあります。特に、家庭の環境は、子どもへの影響がとてつもなく大きく、保護者の状況の変化は子どもの生活を一変させます。例えば、家業がつぶれたとき、保護者が急に病気になったとき、帰天されたとき等。これまで子どもたちの人生が一変する、そのような状況をたくさん見てきました。私たちはそのようなときに、どんな支援ができるでしょうか。残念ながら、そんなとき、私は自分の無力さを感じざるを得ません。しかし、この世界は、それでも生き続ける価値がある、それでも生きる意味があると、そのように信じる力を持てるように教えることは、教員としてまた母として、唯一できることなのかもしれないと思うのです。

私の4歳になる子どもたちはというと、現在、一丁前に親の言う事に対して反抗したり、上げ足を取ったり、親の口真似をして言い返してきたり、反抗期真っ盛り。最近の親への訴えかけは「こっち向いてよ!」「ちゃんと僕のお話聞いて!」「ずっと見てて! ずーっと見てて!」「なんで聞いてくれないの!」などなど。どれほど私が適当に日々子どもたちの訴えかけを受け流しているかがお分かりいただけるかと思います。

子どもの声を、ちゃんと聞いてあげられていない自分に、何とも不甲斐なさを感じます。が、これが限界。特に私は感情的な人間なので、受け入れてあげるどころか、逆に言い負かして泣かせてしまうこともあります。なんとも大人げない……。それでも子どもたちが今は必死に食らいついてきてくれて、訴えてくれる。泣いてわめいて暴れて……。子どもたちがいつか青年期に入り、自分の事をあまり話さなくなる前に、子どもたちと腹を割って人生を深く話し合う、そんなコミュニケーションができるような関係性を、築いていけたらと願います。

 


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