匿名希望
子供の頃のクリスマスといえば、何かをもらえる特別な日を指していました。幼稚園ではサンタクロースの格好をした外国人の神父様からプレゼントをもらうのをワクワクしながら待ち望みました。家庭ではチキンやケーキ、それから、まるで大人になったかのような気分になれる子供用シャンパンが食卓に並ぶ、そんな一年に一度の素敵な夜を待ち望みました。そして子供らしく、サンタがやってくるのも待ちました。サンタさんに手紙を書いたら、カラフルなペンによるお返事の手紙が来ていたけれど、父の書斎にカラフルなペンが乱雑に置いてあるのを見つけた時、私はサンタさんの本当の優しさに気付き少し大人になりました。
高校二年の時のクリスマスは、おそらく初めて国外で過ごしました。思春期、人生で初めて深く思い悩んだ時期に、母の心遣いにより、外国に住む叔母のもとで気晴らしを兼ねてクリスマスの日を迎えたのです。日本とは違う文化、スケールの大きさを実感したものの、私が心の奥深くで待ち望んでいるものとは出会えませんでした。
大学一年の時のクリスマス、私がはじめて本気でクリスマスを共に待ち望み、喜びを分かち合いたいと思った男性がいました。彼はカトリックの信者なので、教会のミサに一緒に与ろうという事になっていましたが、残念な事に文字通りすれ違いが起こり、結局クリスマスを共に過ごすことができませんでした。この日ほど、都会のクリスマスソングが切なく耳に響いたことはありませんでした。
大学三年の時のクリスマス、その年の夏に受洗した私が信者として迎えた初めてのクリスマスでした。イエス・キリストの誕生を大勢の人たちと喜び祝いました。私がかつて心の奥深くで待ち望んでいたものを見つけだしたひと時でした。
社会人になってクリスマスは忙しい日になりました。ある職場ではクリスマス商戦に巻き込まれ、人、人、人相手のスピード接客、なんとか夜のミサに与っても疲れて眠ってしまうのです。師走、年の瀬、繁忙期。余裕のない社会人にとってクリスマスとは一体……?
イエス様のお母さんであるマリア様は、出産のための宿屋を探して夫のヨセフ様と旅をしました。お腹の大きいマリア様の気持ちを考えたことがあるでしょうか。お腹の大きなマリア様にとってその旅路は大変な道のりだったことでしょう。不安や苦しみが伴ったことでしょう。それでもどうして馬小屋での出産まで歩み続けることができたのか。それは、大切な大切な我が子、お腹の中のイエス様が、マリア様にとって何よりの希望だったからではないでしょうか。そしてイエス様の誕生は私たち一人ひとりにとっての希望でもあるのです。
だからどんなに忙しくても、疲れていても、不安でも、イライラしても、苦しくても、イエス・キリストの誕生という絶大な希望がきっと、私たちを救ってくれるのだと思います。それがクリスマスという日ではないでしょうか。
それぞれの人にそれぞれのクリスマスの思い出や過ごし方があると思いますが、今は大きなお腹で苦しい旅をされたマリア様と共に、救い主の誕生を待ち望みましょう!