土屋 至(聖パウロ学園高校宗教担当講師、SIGNIS Japan 会長)
※前回の記事はこちらです。
第二バチカン公会議前の罪意識にとらわれていた私を解放してくれた最初の体験は、1980年頃に参加したME(マリッジ・エンカウンター:夫婦の出会い運動)であった。この運動のスローガンの一つに「God doesn’t make junks.(神はがらくたを作られない)」というのがあった。「人は皆罪人である」ということを認めることが謙遜だと教わっていた私にはとても新鮮な響きを与えてくれた。これぞgood news(福音)だったのである。
CLC では、これは「神の作られたものはみな最高の傑作である。失敗作や駄作はない。」と言い換えられた。霊操の時に与えられる聖書の箇所はみなこれを暗示した箇所だった。たとえば、イザヤ書43章、詩編139章、知恵の書11章など。霊操のときに与えられる聖書の箇所にパウロの書簡が少ないのはなぜか? きっとパウロの罪意識の深さが黙想の妨げになるからかもしれない。
それまで罪意識と劣等感にさいなまれ、自己イメージの低さとがらくた意識でいっぱいだった私はこの体験ですっかり変えられていった。こんな私でも「神様の傑作」と思えるようになったのである。さらにこの人もあの人も神様の傑作とおもえるようになった。その結果、私はとても「おめでたい」人となった。「現実からかけはなれた何も知らないお人好し」というこのおめでたさを「福音的おめでたさ」と呼んでいる。
CLCの分かち合いでは自画自賛の手柄話が多くなった。失敗さえも手柄話のようにわかちあわれるとよく言われた。これは決して自分の自慢をしているのではなく、神様はこの自分をこのように見事に使われたという神の賛美を意味している。
このMEとCLCの体験のあと、ちょうど「宗教」の授業を担当し始めたころ、ある書にであった。ホアン・マシア著『続バイオエシックスの話』(南窓社 1985年刊)に掲載されていた「伝統的倫理と新しい倫理」との比較表は私の宗教や倫理を教える基本的な姿勢を示してくれた。それを私なりに作り替えた比較表を掲載しておこう。
この比較をどう見るか、私にはまさに「我が意を得たり」の感が強かった。私の「宗教」や「倫理」の授業を担当する基本的姿勢が決まったのである。
もう一つ大きく変わりつつあることがある。放蕩息子(ルカ15章)やよきサマリア人(ルカ10章)、ぶどう園の労働者の話(マタイ20章)など「アガペの愛」が強調されるようになったことである。「宗教」の授業ではこれらのたとえ話を読んだ後に、ニーグレンの「エロースとアガペの比較」を紹介する(参考『福音み~つけた 高校編』カトリック教育学会編 燦葉出版社 2016年刊)。
これによると、エロースは真善美などの価値を求めて上昇する愛、アガペは神から人への下降する愛。エロースは条件付きの愛、アガペは無条件の愛、無償の愛。エロースは相手の価値を愛する、アガペは愛して価値を創造する。エロースは相手にも愛されることを望む、アガペは相手から愛されなくても愛する。
たとえば、ザアカイの話(ルカ19章)。イエスはザアカイという徴税人の頭の家に泊まりに行く。しかし、彼が正しい人だからイエスが泊まりに行ったのではない。イエスが声をかけたことにより、罪深い男と言われていたザアカイは回心する。イエスは「愛して価値を創造した」のである。
神の愛がアガペの愛だと強調されればされるほど、否定されるのは「大罪を犯した人は地獄へ、罪を犯さなかった人は天国へ」という「因果応報」の考え方である。
この因果応報の考え方は、たとえば「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」のマタイ福音書(25章)に色濃く表れている。「『この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」
この他にも「タラントンのたとえ」(マタイ25章)などもこういう因果応報のはなしであろう。
森一弘司教は晩年「イエスが全人類の罪を贖うために自らを十字架上にいけにえとしてささげた」というパウロの贖罪説もこの因果応報の考え方ではないかと指摘されていた。
この神のアガペの愛が強調されればされるほど、旧来の罪意識からの解放が進むのではないかと思われる。
私個人はそんなに罪深い人間とは思っていない。けれど現代人としてあるいはキリスト教信徒として、あるいは日本人としては実に罪深いと思っている。罪状を思いつくままにあげてみよう。いずれも自分の責任は小さなものだが、確かに自分にも責任があるといわなければならない。
まず、日本人として。
今の日本の国債、地方債などの債務残高は約1200兆円、国民一人あたり1000万円の借金を抱えている計算になる。この借金の付けを未来の世代に残しているかたちになっている。そしてこの状況を与野党ともに手をこまねいているに過ぎない。このままの借金を残しては次の世代にあまりに申し訳ないと思わないのであろうか。
私たちの世代には責任はないのかもしれないが、日本軍が東アジアでおこなったことについても、日本人として謝らなければならないのであろう。そして日本の政治家たちがこの戦争責任について誠実に謝っていないということも申し訳ない気持ちをもつ。
今の地球温暖化についても、一人一人の責任は小さいかもしれないけれど、まちがいなく私たちに責任はあるといわなければならない。
またパレスティナやウクライナでの戦争を止められていないということも謝らねばならないことである。
キリスト教徒として謝らねばならないこともある。
たとえば十字軍、異端審問、宗教戦争など、ずっと昔のことであり、私たちに責任はないといえばそのとおりであるが、でも歴史を学ぶたびに謝りたくなる。第2次世界大戦中にも教会はユダヤ人の虐殺を知っていながら、何もできなかったことも同様である。
こんなこともある。江戸時代の日本は多くの殉教者たちを出したが、その殉教者たちの血は実らなかった。今の日本のキリスト教は多くの殉教者たちの血にもかかわらず、こんなにちっぽけである。殉教者たちに申し訳ないという気持ちを持つのは私だけであろうか。
私はゆるしの秘蹟の時に、これらの罪を告白しことがあるが、聴罪司祭からは「それは罪ではない」といわれてしまった。でもそれでは救いにならない。これらの罪を告白されたときに、司祭はどう応じたらいいのであろうか?
幸いなことに自分はその中には入らないが、切実にゆるしと救いを求めている人は多数存在する。一時代まえにはこのようなことは罪とはとらえられなかった。
どうしても戦争に行かなければならなかった兵士たち、自分が敵を殺さなかったら殺されていたような場面を体験し、敵をあやめてしまった人たち。
自分の小さなミスが取り返しのつかない事態を招いてしまった乗り物の運転手たち。
自分の意思を麻痺させてしまった依存症の人たち。
心の病故に自殺自死に追い込まれてしまった人たち。
まだまだゆるしと救いを必要とする人は数多い。
イエスはこういう人たちを救うためにも十字架上で自らをいけにえとしたはずであろう。