マリア・クララ(カトリック麹町教会所属)
キリスト教に関心を持ってからずいぶん長い期間が過ぎたのに、自分が洗礼を受けることは考えていなかった。
私が育った地域では、カトリックの信徒は高級な家柄の人ばかりだった。子供はカトリック系の学校に通っていた。
大人になってからとても心の広いあたたかな神父様に出会う機会があった。キリスト教が好きになったけれどやはり私のものではなかった。
カトリック信者になるにはもっと勉強しなくてはと、神学講座に通った。今度は頭の良い人ばかりで、やはり私は溶け込めなかった。
業を煮やした信徒の友人が、親しい神父様を訪問するときに連れていってくれた。
その神父様もとても温かく穏やかな方だった。取り敢えず入門講座に通うことになった。毎週一回一年間休まずに通って、キリスト教についてずいぶん柔らかく思うことができるようになった。でも、まだ私の中に堅い十字架が存在した。翌年も落第生のように入門講座を繰り返し受けた。
修道会が運営する夏合宿が毎年開かれて、指導司祭はその神父様だった。未信者の人も受け入れてくれるので参加した。50人くらい集まる。聖書の勉強も毎朝のミサも穏やかですがすがしい時間だった。居心地が良かった。
それでも洗礼を受けて、自分がどう変われるのか分からなかった。
入門講座三年目……
夏合宿参加三年目。さすがにこのままではいけないと思った。合宿の最終日のミサが終わったあと、誰も居なくなった聖堂の十字架の前に立って、神様助けてください、私はどうしたらよいのか分かりません。長いことこうべを垂れていた。
「おはよう」
男の人の穏やかな声がした。
イエス様だ!
背中のすぐ後ろが柔らかい空気に包まれている。そこから声がする。イエス様が来てくださった。私は感動で固まっていた。
ゆっくりと振り返った。ローマンカラーの神父様が立っておられた。でも、まだイエス様と思っている私。
それから秋になって神父様を訪ねた時に、夏合宿のときの体験を話した。
「イエス様が気に掛けて下さって、私のところに来てくださったのかと思いました……」
神父様は私の話を聞き終わると、
「そう……」と、うなずかれて、
「それは良かった……」と。
その年のクリスマスに私は神父様に洗礼を授けていただいた。
私のイエス様は、夏合宿の聖堂で私の後ろに立ってくださった方だ。
あの時の感覚が私のイエス様だ。
受洗前の私はとても感違いしながら悩んでいたようだ。