井上洋治神父は1950(昭和25)年に東京大学で森有正さんの講義に出席していた関係からパスカルを卒論に選びました。
「ヨーロッパ近代が誕生していく17世紀の初めに生まれ、自然科学にこの上ない関心を示したパスカルは、僅か16歳で『円錐曲線試論』をかきあげ、次いで『真空論断章』を発表する。この稀有の天才パスカルが、分析的方法によっては如何ともなしがたい現実にぶつかり、決定的な回心を体験し、やがては彼独自の方法論を展開していく。そのようなパスカルの人生の軌跡を追ってみることは、私自身の神探求の生活にもプラスになるに違いないと考えた」(『余白の旅』)と書いています。卒論の題は「パスカルにおける認識と秩序」でした。
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森有正さんは、1950(昭和25)年8月下旬に戦後第一回のフランス政府給費留学生の一人として渡仏しています。井上神父と同時期に森有正さんに教わっていた伊藤勝彦さんは、当時東大の哲学科1年生で夏休み中に1年分の単位を得るための補講に出席していたといいます。それは森さんのデカルトの『省察』の演習と『パスカル研究』という題の講義だったということです。
伊藤勝彦さんは『人類の知的遺産34 パスカル』という書物のなかで、アンリ・ベルグソンの言葉「デカルトとパスカルが2つの思考形態、すなわち近代精神が分有している2つの思考方法の偉大な代表者なのである」を出し、デカルトとパスカルが近代精神の代表者であることをわれわれに認識させてくれます。
そして、デカルトとパスカルの根本的相違点を「デカルトの認識の秩序は基本的には、同質的、連続的であった。彼はあくまで、観念に内在的な明証性の論理を追求した。これに対し、パスカルは内在性を根底からつきやぶり、他者との根源的関わりにおいてある愛の確実性を追求した。『パンセ』の全編は、〈隠れた神〉としての超越者を解読する象徴の論理によってつらぬかれている。こうした違いがどうして生まれたかといえば、それは、デカルトがつねに神学の領分に立ち入ることを注意深くさけ、あくまで自然理性の立場にとどまろうとした哲学者であったのに対し、パスカルは神学を自分の天職としてみずからひきうけ、すすんで超自然的な愛の秩序へと超えでていくことを欲したということからくるのであろう」と説明されています。しかし、こうした根本的な相違点がありながらも、両者のなかにいくつかの共通点が認められ、パスカルも合理主義の後継者であり、デカルト的な理性的推理の重要性を充分に認識していたとしているのです。
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パスカルを研究した中村雄二郎さんは、『人類知抄』という書物でパスカルを取り上げています。そしてその冒頭に選んだ言葉が「イエスは世の終わりまで苦しみ給うであろう。その間、われわれは眠ってはならない。」という『パンセ』のなかに書かれたものです。
中村さんは、アメリカの哲学者ヒューバート・ドレイファスが「今日のコンピューター時代にふさわしい哲学者は、近代科学の嫡流に位置するデカルトではなくて、〈幾何学的精神〉とともに〈繊細の精神〉の重要性を認めたパスカルだ」と言ったことを紹介し、デカルトが『方法序説』の冒頭で「良識つまり理性はこの世の中でもっとも公平に分配されている」と言っていることから、パスカルの説く〈狂気の不可避性〉は、デカルトの説くこの〈理性の普遍性(偏在性)〉とまったく対照的な方向で人間の本質をとらえていると書いています。
そしてデカルト的な近代理性に対するパスカルの批判として、『パンセ』のなかから物理学的な宇宙像にふれた「この無限の空間の永遠の沈黙が、私をおののかせる」(ブランシュヴィック版 断章206)を引用し、「このパスカルのことばは、そのような理性が発見した宇宙の〈無限空間〉を、濃密な意味を持つ有機的コスモスの喪失として、つまりは、そこから神の立ち去った後のおそろしい〈永遠の沈黙〉としてとらえたものにほかならない」としています。
中村さんが最初に書いた『パンセ』からの言葉を選んだのは、「われわれ人間とくに日本人は、社会的にも個人的にも、きびしい現実に直面すると、目をつぶってしまいがちである。過去の歴史を振り返ってみても、認識と思考を放棄することが多かった。そういうなかで、哲学を天職として選んだ者の持つべき最低の責任あるいは覚悟としてどこまでもたじろがずに現実を見つめなければならない、と思っているからである」とされています。
「イエスは世の終わりまで苦しみ給うであろう。その間、われわれは眠ってはならない。」(『パンセ』断章553)
いま、わたしたちは哲学者に限らず、中村さんの言うことを真摯に受け止め、「どこまでもたじろがずに現実を見つめなければならない」のではなかろうかと思います。
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井上神父は、1950年に卒業論文を書き上げて東京大学文学部西洋哲学科を卒業し、その年の6月4日に豪華船マルセイエーズに乗って横浜港を出航します。その船で留学する遠藤周作さんと出会うことになります。
わたしは井上神父が日本を離れた翌年の1951(昭和26)年生まれですが、井上神父が「パスカルへの視線」というお土産を遺してくれたことを、今日に至って、一層重く受け止めています。
鵜飼清(評論家)