戦争で街が破壊され、非戦闘員たちが爆弾の犠牲になっていく。ミサイル弾は容赦なくアパートや劇場、病院に打ち込まれ、女性や子ども、老人たちが犠牲になって亡骸が放置される。
街が戦場と化したとき、そこは地獄の様相を呈する。こうした光景をぼくたちは何度も何度も映像で見てきている。それは、第二次世界大戦であり、ベトナム戦争であり、湾岸戦争であり……といった具合に。
いまウクライナで起きている戦争の映像は、ぼくが高校時代のベトナム戦争を思い起こさせる。テレビのニュースでは常にベトナム戦
争のことが報じられていた。それは、常にアメリカ側の報道であった。ニュースキャスターの田英夫がハノイから北ベトナムの視点で報道したとき、そこにはじめて「戦争」が報道として立体的になった。しかし、間もなく田英夫はキャスターを降板させられた。
ウクライナでの戦争は、圧倒的にNATO側とアメリカの側の報道が流されている。ロシアがウクライナへ一方的に軍事進攻した侵略戦争という構図は間違いないものの、日本で流されるニュース報道の映像はウクライナ側に立つ報道だ。ロシア国民は報道規制でプーチン政権の側の報道しか知らされない。それは日本における第二次世界大戦のときの大本営発表と同じだ。国民は正しい報道を受けにくい。
為政者は常に自分たちに有利な報道しか流さない。ぼくたちは、真実なにを正しい報道と信じるべきなのか。新型コロナウイルス感染拡大の前には、安倍政権の時、同調圧力や自主的隷従といった言葉が使われていた。コロナはそれらを一旦うやむやにし、いまに至る。だが、報道は立体的に知らされなければならないことを、いまこそ自身への戒めとしておかなければならないだろう。
ウクライナに起こった戦争は、コロナで生まれた危機意識を戦争という形でさらに拡大している。コロナで亡くなり、多くの棺が並ぶ光景をいまも思い浮かべることができるなかで、また戦場で亡くなった多くの亡骸を見ている。
SNSによる情報伝達の時代は、すでに新たな報道といったスタイルの様相を見え隠れさせていた。それが戦争という事態では、ピンポイントで目的を捉えることができ、戦車やミサイル弾を操る大いなる武器となっている。戦争のあり方がいままでとは明らかにちがっていることをウクライナでの戦争が見せている。
死者を死者として終わらせてはならない。第二次世界大戦で、日本の本土に落とされた爆弾による多くの非戦闘員たちの死者たちを忘れては
ならない。広島と長崎に落とされた原爆で亡くなった死者たちを忘れてはならない。日本本土から戦場に駆り出され、飢えや病気で亡くなった兵士たちを忘れてはならない。
ウクライナに起きた戦争で亡くなったすべての死者たちを忘れてはならない。訪日したフランシスコ教皇が長崎で祈ったあの姿を忘れてはならない。
ウクライナでの戦争は、「21世紀の世界平和へ向けての祈り」として、十字架上のイエス・キリストの渇きを想わずにはおかないのである。
鵜飼清(評論家)