キリストを見つめる ヘブル人への手紙11章2~3節


佐藤真理子

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。

(ヘブル人への手紙11章2~3節)

 冒頭の聖句にはイエスが「信仰の創始者」であるとあります。私たちが信仰を持つのは、今生きている主イエスに出会うことから始まります。しかし、一度信じても、そのあとイエス様を見失って生きてしまうことがあります。イエス様を見つめていようと決心することが、信仰者には必要な決断なのです。

 

良い信仰者として生きようとしても、イエス様ではなく、別のものを見つめてしまうことはよく起こります。キリスト教の組織である教団や教会、神学校、こういったものはもちろん大切なものですが、運営する人にとって「キリスト」以上にこのような組織が大切になってしまうとそこでいろいろな歪が起こるようになります。組織の中で「○○をするので無事に行えるように」という祈りはあっても、肝心の「○○をすることが正しいのかどうか」ということを神様に聞く祈りが無いことはよくあります。

組織自体を神様に導いてもらうこと、もし神様がその組織を手放したり閉じたりするよう促すならいつでもその通りにできること。それができないのならば、キリスト以上に、あくまでもキリストを信じるためのツール・手段である組織の方が目的化し、キリスト以上のものとなってしまっている可能性があります。すると、人生の歩み方は、私たちがキリストの前に立って歩き、キリストに後ろをついてきてもらっている形になってしまいます。神様は、私たちがキリストと手をつないで歩くことを望んでいるのです。キリストは目に見えません。目に見えるものを優先しやすいのは当たり前ですが、目に見えないものを見えるようにして歩むことが信仰なのです。目に見えるものは一時的ですが、目に見えないものは永遠に変わらず存在します。本当に確かなものは、目に見えないのです。

もう一つ、キリストを見つめるうえで大切なのは「自分を忘れる」ということではないかと思います。勿論、自分を見つめるのは大切なことです。しかし、過度に自分だけを見てしまうと、傷つく必要のないことで落ち込んでしまったり、考える必要のないことに捕らわれてしまうことがあります。

先に述べた手段の目的化と、自己中心にはつながりがあるように思います。例えば、時折人には所属組織で認められることや、自分が中心となっている組織が認められることで承認欲求を満たそうとすること、あるいは組織の問題を解決に向かわせるのではなく保身に回ってねじ伏せてしまうことがあります。自他分離できず、自分というアイデンティティが組織にまで広がった時に、それが起こるのだと思います。勿論神様は一人一人に個性あるユニークな存在として賜物を与えてくださいました。しかし、それを存分に生かすために本当に必要なアイデンティティは組織でも自分でもなく、「キリスト」そのものなのだと思います。

 

私は自分が Faith Hope Loveミニストリーを始めた当初、つながりのある教会やお世話になった牧師先生に応援してほしいと思っていました。教会の方々や先生方の暖かさを通していろいろと励みになることがあったのにも関わらず、時折、神学生だったときと、ミニストリーを始めた時の違いを考えて寂しい気持ちになることがありました。そういったことで自分が一喜一憂することが宣教の働きを妨げると気づいたとき、なぜ自分がそうなってしまうのかを考えてみました。そのとき、私は自分自身に自分の関心が向きすぎていたことに気づきました。

自分が宣教の働きについたのは、キリストを伝えるためであり、自分の働きはあくまでも手段でしか無いのです。目的は、キリストを宣教すること、その一点です。ところがいつの間にか自分と自分の働きが結びつき、更にそこへ強い関心を注いでしまい、感謝なことを数えるよりも、殊更いろいろなことに過敏になって落ち込む要素を数えていることに気づきました。目をあげれば、本当に素晴らしいキリストの恵みが注がれていることに気づくことができるのに、私の眼はキリストよりも、自分自身を見つめていました。それに気づき、自分ではなく神様の目的に焦点を合わせると、素晴らしい恵みに気づくことができました。

私の語ったメッセージを純粋に喜んでくださる方々がいること、キリスト教世界で様々な思いをしたからこそ届けたいと思った「教会とはあなた自身です」というメッセージを喜んで受け取ってくださる方がいること、教派を超えて宣教できること、キリスト教に関心を持ってくださる方がいること、そしてキリストに出会ってくださる方がいること。また、宣教のために協力してくださる方々がいること。全て神様が生きて働くからこそ現実となっている、本当にあまりある恵みです。身近な方に喜んでいただけるのも感謝なことですが、私の本来の目的は周りの人に認められることではなく「キリスト」と「聖書が伝える真理」を必要とする方へ届けることなのだと改めて教えられました。

キリストを一心に見つめていれば、大切なことを見失わずに済みます。生きていれば良いことにも出会うし、悪い出来事にも出会います。人から喜びを与えてもらうこともあるし、傷を受けることもあります。人と自分を比べそうになったり、混乱させられるような情報が飛び込んで来たりと、周りの影響を受けて平安を失うようなこともあります。落ち込ませるような出来事に出会ったときは、立ち止まって目を上げて、キリストを見つめてください。

 

不安や混乱に陥れる情報に出会ったり、誰かの悪意などで傷つけられることがあったとしても、それは結果的にあなたから何も奪えません。キリストがいつも最善の方へとあなたの手を握って導いてくれることはどんなことがあっても何も変わらないのです。世の中にあなたの価値を決めさせないでください。あなたの価値は、神様が決めるのです。キリストは、あなたを生まれる前から望み、目的をもって世に送り、深く愛していて、決してあなたから離れません。神様が、あなたの存在を完全に「善い」としているのです。火の中でも水の中でも、神様はあなたを守り通します。

あなたが祝福されるほどに、落ち込ませる出来事は起こるかもしれません。サタンが奪えるのは喜びだけだからです。そんなときは、塞ぎ込むよりもあなたを必要とする誰かを励ましたり助けたりしてください。神様が喜ぶことをすれば、落ち込んだ気持ちはどこかへ消えてしまいます。

今日も、「信仰の完成者」であるキリストを一心に見つめて、平安の中で喜んで歩んでいきましょう。

 

佐藤真理子(さとう・まりこ)
東洋福音教団所属。
上智大学神学部卒、上智大学大学院神学研究科修了、東京基督教大学大学院神学研究科修了。
ホームページ:Faith Hope Love

 


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