今朝の銀座線新橋駅の一コマです。
電車がホームに入ってくる頃にはホームはヒトでいっぱい。ドアが開くや否や、我先にと電車に乗り込む人、人。わたしもその中の一員で列に並んで乗り込みました。
よくある朝の風景です。車内は立錐の余地もない状況。発車のベルがなり、ドアが閉まりかかったとき、一人の学生が飛び込んできて体をねじ込みました。周りの人はびっくりしてよろけながら後ろに下がり、学生は1名分の場所を確保するや下を向き携帯をいじり始めました。周りの人も嫌な顔をしながらも見て見ぬふり。これもよくある風景。わたしは「そこの君。“ごめんなさい”とか“ありがとう”とかいう言葉は知らないの」と咄嗟に声をかけようとしましたが、周りの人の無視した雰囲気に(余計なことはやめよう)と言葉を発するのを躊躇しました。
電車は目的の駅にゆっくりと入線し、ドアが開きました。
私や車中の人が下りようと、ドアに身を寄せるとドアの前の女性がやはり携帯を見ていて気付かないのか、ドアへの通路をふさいでいます。私だったら「すみませんね。おります。」と声をかけるのが常ですが、下りる人たちは肩で押すように間をあけて下りていきました。女性の立場からすると「なにすんのよ」ですし、下りる人から見れば「邪魔なんだよ。そこどけよ」です。
そんな会話はありませんでしたが、皆無視して下りていきました。
些細な日常の一コマですが、「ここにちょっとした会話があったらなぁ」「笑顔で一言あったらなぁ」と思いました。
皆それぞれの立ち位置で思いは変わりますし、それぞれにはそれぞれの主張があります。
自分なりに培ってきた正義があります。
互いに相手を感じて、相手を思った言葉を発することができたら、世の中のぎくしゃくは少なくなるのになぁと感じました。
「なぜこんなことを長々といったかって?」
それぞれの正義をぶつけ合う延長に武力闘争があります。
それぞれの正義をぶつけ合う先には相互の破滅が潜んでいると思います。
では正義を主張する以上に大切なことは何でしょうか。
何を行動規範とすべきでしょうか。
何を信じて生きていくことが互いの幸せにつながるのでしょうか。
キリスト教では、それを「愛」と教えています。
ロシアのウクライナへの侵攻が静まり、愛と平和の世界になることを祈ります。
あき(横浜教区)