山本潤子(絵本セラピスト)
絵本と哲学
私の生まれた地方では11月後半になると冬支度が始まります。庭の植木に雪吊りを、1階の掃き出し窓や縁側の窓には雪囲いをします。日当たりの良い南側の部屋は冬の間は昼間でも薄暗く、ちょっと息苦しい気持ちになります。12月から1月にかけて降ったり止んだりしていた雪も次第に積もるようになり道路以外は寝雪で覆われます。冬至を過ぎるとお米一粒づつ日差しが春に向かうと言われますが、地上の春は天体の動きを後から追うようにゆっくり訪れるのです。冬至からいよいよ本格的な雪との暮らしが始まります。
寝雪という言葉は雪国で暮らす人々の覚悟の言葉でもあるように思えます。同時に春の始まりを確信する言葉でもあると私は感じています。音もなく降り積もる真っ白な雪、その中にいて自分だけが余計な色を纏った異物のように感じることがありました。そんな私の思考をも雪は真っ白に塗り替えていくのです。
あらゆる形あるものを覆い隠す雪、視界を奪われた思考は自ずと形而上の哲学的思考に切り替わるものなのでしょうか。
暖かい部屋の中で絵本を開く時、洗練された絵と言葉の中に哲学的思考を見出すことがあります。「形而上の概念を形而下に表現したものが絵本ですね。」哲学を学ばれた70代の女性の言葉にハッとしたことがあります。
自分と向き合う神秘的な時間もまた、雪国の暮らしなのかもしれません。
『わたし』
谷川俊太郎:ぶん、長新太:え、福音館書店
左のページに女の子、右のページには家族や友達、動物や地域の人、外国人や宇宙人、知らない人も現れます。右のページの人から女の子が何と呼ばれるのか、その相手によって女の子の目つきや手の位置が変わり、全身の表情から女の子の感情が伝わってくるような絵本です。
5歳の「やまぐちみちこ」、男の子から見れば「おんなのこ」、親戚からは「孫のみちこ・姪のみっちゃん」、先生からは「生徒」、社会生活の中では「お客さん」や「迷子」と呼ばれることもあります。大きな括りでは「日本人」、「地球人」にもなってしまいます。
何度も読んでいるうちにこれは自分を知る心理療法のような絵本だと思いました。そして、絵本セラピーの場で実践しました。最初にどんな自分がいるのか書き出してもらい、次にその中で居心地の良い「わたし」に印をつけて、その理由を話してもらうのです。
「男・父親・自営業者・納税者……」などとスラスラ書いていく40代の男性は「父親」としての自分を楽しそうに語ってくれました。息子さんと過ごす時間を大事にしていることが伝わってきました。他にも「祖母」や「美容師」、「母」など、心地よい自分に意識を向け語り合う時間はとても楽しく、他の人の話を聴いているうちに更に気づきがあり、時間はいくらあっても足りないくらいでした。
私も自分のことを書き出してみました。「長女・妹・母・読者・セラピスト・乗客……」などと書いていくうちに、「妻」と書くことができない悲しみに襲われました。そして、夫が亡くなってから世間では「未亡人」と呼ばれたこともあり、その言葉のヒンヤリした感覚を忘れてはいませんでした。書類にはよく「既婚・未婚」の欄があります。既婚ではあるけれど現状にそぐわない、かといって未婚でもありません。どちらでも影響ないような書類にため息をつくのも自分の「妻」という役割を失ってからのことでした。
自分が何者であるのか、そしてどう感じているのかを自分に問いかけながら、相手によって表情を変える絵本の女の子に自分を投影していました。笑顔でいられる私の横には家族や友人がいます。好奇心でいっぱいの私の前には人生の大先輩たちがいます。名乗ることもない乗客同士でも飛行機に乗っている時は同志です。無事着陸した時は少なからず安堵感を共有しているはずです。私たちは多様な関係性の中で知らないうちに感情を分かち合っているのだと思います。
絵本は哲学書のようだとこの時初めて思いました。検索すると「哲学とは真理を追求する知的営みである」とありました。思考の柔らかい子どもたちは絵本を楽しみながら視点を柔軟に変えることができるでしょう。絵本の中で擬似体験することは物事を哲学的な概念で捉える経験でもあるのでしょう。そして、自然に豊かな心と感性、バランス感覚を育んでいるのかもしれません。
哲学を学ぼうと思ったことは一度もありませんが、絵本の中にその構造が潜んでいることを発見したつもりの私は、もう自分が何者なのかはどうでも良いことになったのです。
季節の絵本
『手袋を買いに』
新美南吉:作、黒井健:絵、偕成社
洞穴から初めて外の雪を見た子狐は、あまりの眩しさに眼に何かが刺さったと言いました。母狐は子狐の知らないことを一つずつ教えます。雪で遊んだ子狐の手は牡丹の花のように赤くなりました。霜焼けにならないように母狐は町の帽子屋で手袋を買ってあげようと思いました。でも、人間に追いかけられ怖い目に遭ったことのある母狐は町に行くことができません。そこで、子狐の片方の手だけを人間の手に変えました。そして、帽子屋でその手だけを差し出し、「このお手々にちょうどいい手袋をください」と、ひとりで手袋を買う方法を教えました。しかし、子狐は初めての人間の暮らしに触れ、電燈の光に驚き、うっかり反対の手を差し出してしまいました。帽子屋は狐の手を見て渡されたお金が落ち葉ではないかと一瞬疑いましたが、お金は本物でした。子狐は暖かい手袋を手に山へ戻ることができました。そして、ふるえながら待っていた母狐に人間はやさしいと報告するのです。
子狐が寒い冬を快適に過ごせるように母狐は精一杯のことを考えました。でも、トラウマとでもいうのでしょうか、怖くて人間の町には行けないのです。自分が行けないところに幼い子供を一人で買い物に行かせるなんて、どういうことなのと思いました。
子狐もいつかは一人で生きていかなければなりません。子どもを信じて冒険に出す、子狐が戻ってくるまでの時間はどんなにか長く感じたことでしょう。無事に戻ってきた時はどんなにか安堵したことでしょう。
美しい言葉で綴られた物語は音読しないともったいないような響きがあります。また、控えめな色調の絵が冷たい雪を柔らかい毛布のように感じさせます。それはまるで、母狐の優しさそのものではないでしょうか。
小狐に寄り添えば懐かしい出来事をはっきりと思い出します。私が5歳の時、小学一年生の兄とバスに乗って叔父の家に泊まりにいったことがありました。兄を見失わないように私はとても緊張していました。こんな時、子狐のように失敗はつきものです。叔父のお土産に持たされた包みを兄はバスの中に置き忘れてしまいました。停留所もお土産も妹も全部に心を配ることは幼い兄にはできなかったのだと思います。鮮明に覚えているということは、私にとってもとても大きな出来事だったということです。成功体験に繋がったかどうかはわかりませんが、意味のある経験だったのでしょう。
一方、母狐に寄り添うと私自身のことを思い出します。夫の長期出張が続いた頃、週末に小学一年生の息子をひとりで特急電車に乗せることが何度もありました。夫が出張先の駅で待っているのです。お父さんに会えることが嬉しくて、息子は喜んで特急電車に乗り、帰りは夫が車で連れて帰りました。今思うと、なぜ、そんな冒険をさせたのかよくわかりません。もしかしたら、兄とバスに乗った経験が無意識にそうさせたのかもしれません。息子を信じることは自分を信じることなのだと思います。
でも、孫にはその経験をわざわざさせたくはありません。正解はありませんが、母という立ち位置は特殊なのだと言わざるを得ません。
今年は雪が多く5歳の孫は初めての雪原に歓喜の声をあげ、屋根の氷柱に怯え、落雪の音にも一喜一憂しました。子狐の手の冷たさは経験からわかることですが、ひとりで買い物に行くことは時代が許さないでしょう。でも、何度も読んでいるうちに実体験と物語の融合から、たくさんの擬似体験を積んで欲しいと願っています。
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東京理科大学理学部数学科卒業。国家公務員として勤務するも相次ぐ家族の喪失体験から「心と体」の関係を学び、1997年から相談業務を開始。2010年から絵本メンタルセラピーの概念を構築。