鈴木浩(暮らしの映像社代表)
どうしてもしなければならない旅というものが、人それぞれにあるような気がする。50年前のあの旅も私にとってはそうだ。大学卒業後、就職せずに学生時代のバイトで貯めた資金で日本全国を旅した。自転車で一年をかけて。全国の小学校を訪問し、子どもたちが描いた絵を集めて『児童画にみる日本の生活と風土』という絵画展を開催するためだ。
子どもたちが描いた絵を通して日本を見てみたらどんなに面白いだろう。自転車で日本中を旅するのも今しかできない。「そういうことは学生時代にやっておくことだ」恩師からそう言われたが、考えを変える気はなかった。なぜこんなことを思いついたのか。絵や旅が好きなこともあるが、あの頃の私は自分にとって何か確かなものを求めていたのだと思う。優柔不断な自分に挑みたい気持ちもあった。「これだ!」と決めたことを、困難を乗り越えやり遂げてみたかった。
出発の年昭和44年は日本中が大学紛争で騒然としていた。政府や大学がよいとは思わなかったが、スローガンを叫びゲバ棒を振り回す学生運動にも違和感があった。どちらも信じられない。しかし、子どもの絵の世界は違う。そこにある自由で率直な表現。これは信じることができた。権威ある絵画展で優秀作品とされるような上手な絵でなくていい。子どもの心が伸び伸びと表現されている絵を集めて展覧会をやりたい。これが私の“夢”になった。今までこんなに夢中になり、物事に打ち込んだことはなかった。資金稼ぎのバイトの掛持ちも苦にならない。節約すれば何とかなりそうな資金を貯め、寝袋や炊事道具を自転車に積んで旅に出た。
一年かけて約120の小学校を訪問し、約500点の児童画を集めた。子どもたちが描いた町や自然、学校生活や親の働く姿などの絵。昭和という時代が見えてくる。いくら見ても興味が尽きない。児童画の楽しさを多くの人に見てもらいたいと思った。だが肝心の展覧会場がなかなか見つからない。デパートの催事場は利益につながらないと相手にしてくれない。厳しい現実に直面し、自分の考えの甘さを思い知らされた。
途方に暮れているときに思わぬ出会いが与えられた。東京・銀座と日比谷の間の地下通路ギャラリーを見つけたのだ。無料で会場を一か月使わせてくれる。「天の助け」と感謝した。絵を台紙に張り、児童名や学校名を書き、展示した絵を一週間ごとに入れ替える作業はとても一人ではできない。大勢の友人たちが手弁当で手伝ってくれた。新聞やラジオでも取り上げてくれた。通行する人たちが立ち止まり、絵を見てくれた。大きな喜びだった。この旅で痛感したのは、世間知らずでいたらない自分だった。同時にそんな自分を支えてくれる人々の存在のありがたさを知った。どうしてもしなくてはならない私の旅は終わった。
その後、就職、結婚、子どもを育て、親を見送り……そしてこの間、後期高齢者になった。昭和、平成、令和と時代は変わった。展覧会を開催するために教育委員会や学校に児童画の提供を個人でお願いする。あの時代でも怪訝な顔をされた。今では無理だろう。駅の待合室や公園のベンチで寝袋に入って寝る。これも今では許されないと思う。
数年前、友人たちの協力を得て500点の絵をデジタル写真化した。「ウェブサイト児童画展・ありがとうの絵」というホームページを立ち上げ、絵を全国各地の小学校ごとに見ることができるようにした。さらにフェイスブックでも絵を紹介したところ、思わぬ展開があった。絵を描いた本人が、ネット上で小学校時代の自分の絵を見つけたのだ。絵は学校からいただいたので、私は描いた本人と面識はなかった。本人にしてみれば大きな驚きだった筈だ。
絵を描いた本人にお返しすることにした。富山、神奈川、沖縄、京都、北海道、次々と絵の作者が現れた。「絵を見つけた時、子どもの頃を思い出し涙が出ました。額に入れて飾ります」「子どもの頃の絵は散逸したけど、この絵だけは残りました」「仏壇の両親にも見てもらいます」絵をお返しした方々の言葉だ。
札幌市では50年前に絵をくださった小学校の前で、作者であるYさんにお返しすることができた。札幌の街の夕景を描いた見事な作品だ。Yさんは当時小学六年、お母さんと二人暮らしだったそうだ。働いていたお母さんが戻って来る夕暮れ時が好きで、度々夕景を描いていたと話してくださった。Yさんが98歳のお母さんにその絵を見せる光景を想像して嬉しかった。
私が若い日の“夢“を実現できたのは、出会ったたくさんの方々や友人たちの支えのおかげである。「人と人を出会わせるのは神です」尊敬する神父の言葉だ。その通りだと思う。私の心に残る旅。それはありがたい出会いの旅であった。出会った方々と友人たちに「ありがとうございました」と今一度感謝したい。あの旅で集めた児童画は私の“宝物”。今も物置にある。